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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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切れない鋏 4.武の章 追悼本番

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 早く綿谷がきて紗弥の心が和めば、いつも通りの日常に戻れる――

 そう思うと、また震えが襲ってきて、「俺もコーヒー」とだけ言い残して病室を出た。

 スライドドアを閉めた途端、強烈な震えが体を覆っていった。歯をくいしばってこらえようとしても、トランペットを吹きすぎたせいか筋肉に力がかからない。
 意識が遠のいていく――ずり落ちるようにして床にへたりこむと、誰かが体を支えた。

「お疲れのところ、悪かったね」

 視界がぼんやりとして顔がはっきりと見えなかったが、小雪の父だということは分かった。脇を支えられ、力の入らない足をひきずって廊下の椅子に座る。差し出された温かい缶コーヒーを握っていると、徐々に焦点があってきた。

「君が有川武くんだね。紗弥と小雪から話は聞いているよ。今夜は弟さんの命日だというのに、娘のことで心配をかけて申し訳ない」

 そうだ、今日は慎一郎が死んだ日だった――そんな認識も薄れていくくらい、紗弥が事故にあったという事実が重く体にのしかかっていた。

「もうすぐ結婚するそうだね。結婚祝がどうだとか言って朝から騒いでいたが、本当は寂しいのだと思うよ」

 結婚祝――本番前にこっそり開封したら、中には食器セットが入っていた。インテリア会社の跡取り娘に他社ブランドの食器を贈る、その見事な嫌味にひとり笑ってしまった。

 缶を握ったままぼんやりとしていると、小雪の父はそっと引き抜いてプルトップを開けた。それをまた武にさし出してくる。

「どうか君は君の幸せな人生を。今まで紗弥を支えてくれてありがとう」

 そう言われて、目が覚める思いがした。この男性は、紗弥と武の出自を知っている。偶然再会してから、武が結婚に至るまでの経緯も――

 ゆっくり会釈をして立ち上がったかと思うと、「ああそうだ、小雪をここまで連れてきてくれてありがとう。家内が戻ったら、一緒に帰るよ」と言って、病室に入っていった。

 携帯電話の時計を見た。もうすぐ綿谷が来るだろうし、小雪の母も戻ってくるだろう。自分にできることはここまでだ、そう思って缶コーヒーを飲みほした。
 温かいミルクの味がした。何故か小雪の笑顔が浮かんで、彼女が好んで飲んでいたミルクコーヒーだったと気づいた。



 車に乗りこんでエンジンをかけたものの、ハンドルを握る手に力が戻ってこない。

 プロを目指して毎日練習していた頃とは違い、最近は本番後の反動が体にこたえる。力んでいるつもりはないのに、どこか無駄な力が入っているらしく、次の日の仕事は使い物にならなくなることもある。

 手で顔の両側にある筋肉をもんでみる。鈍い痛みとしびれがいつまでたっても取れない。頭の中で演奏するはずだった『ハウ・ハイ・ザ・ムーン』が流れている。

 カーステレオをつける気力もなくシートに体をもたせかけていると、いつの間にか眠っていたらしく、病院の照明は半分が消えていた。身震いをしながら携帯電話を見ると午前一時を回っていた。セッションにきていたプレイヤーや客たちや、愛美や信洋からも山のようにメッセージが来ていたが、紗弥のところだけを押した。

『あんたまだそんなところにいるの?』

 送ってきたのは五分ほど前らしい。紗弥の病室があったあたりを見上げると、そこだけ照明がついていた。体が冷えて、指が思うように動かない。エアコンの設定を「強」にして、返事を打った。

『寝てた』

 起きていたのか、紗弥はすぐに返事を送ってきた。

『ばかじゃないの? そんなところで寝てたら凍死するわよ。病室に上がってきなさいよ』
『こんな時間に入れないだろ』
『救急用の出入り口なら、家族だって言えば入れるわよ』

 武はひとりで笑った。人に対して真面目なくせに、必要な嘘ならつくことを厭わない。大人の女性になっても紗弥の本質は変わっていなくて、武を安心させてくれる。

 『今行く』とだけ打って、車の外に出た。エンジニアブーツが沈むほど雪が積もっている。

 吹雪の中に巨大な病棟が佇んでいる。闇夜を照らすあの光の中に、死を待つしかない命がいったいどれだけつめこまれているのだろう。

 薄暗い廊下を歩いていると、五年前のあの日が嫌というほど目の前に迫ってくる。

 慎一郎が亡くなったのは、事故から三日後のことだった。脳や内臓の大事な器官を圧迫されたこともあって、手術の末にも回復にはいたらなかった。
 亡くなるその日まで慎一郎の意識はあった。希望などどこにもないのに、周りの人間に励まされ、死んじゃだめだと言われ、薄れゆく意識の中で「小雪に会いたい」と言っていた。迎えに行ったが間に合わず、死ぬその直前まで生にしがみついてもがいていた。

 スライドドアをそっと押しあけると、紗弥がこちらに顔を向けた。家族はみな帰ったらしく、綿谷の姿もなかった。ベッドサイドのライトだけが光を灯している。パイプ椅子をベッドのそばによせて座った。金属のきしむ音が、五年前と同じように鼓膜を引っ掻く。

「綿谷さんに言ったの、あんたでしょ」
「わるかった?」
「こんな無様な姿を見られたい乙女が、どこにいるっていうのよ」
「乙女っていうか、侍みたいなセリフだな」
「中身は男だって言いたいんでしょ」
「でもあの人の顔見たら、ホッとしただろ?」
「……そうね」

 そう言って紗弥は微笑んだ。他愛ない言葉のやりとりが、胸にじんわりと広がっていく。
 紗弥の手を取った。冷えているが、生きている人間の温かさがあった。

「セッション、最後までできなかったんじゃないの」
「あとハウハイとブラックバード……」

 あれほど固執していた曲だったのに、もうどうでもよくなっていた。ピアノは愛美、ドラムは信洋が叩いて、他の穴埋めは仲間がやってくれた。締めの『バイ・バイ・ブラックバード』だけは綿谷と二人でやるつもりだったが、そんな気力はどこにも残っていない。

「……もういいんだ」
「何言ってんの。最後のライブ、四月にあるんでしょ。その時やればいいじゃない」

 武は首をふった。ふっているうちに体のどこかの栓が抜けたのか、生ぬるいしずくが頬を伝っていった。鼻水が喉の奥に流れ落ちても何もできずに、ただ紗弥の手を握っていた。

「紗……弥……俺もう……だめかも」

 封印していた言葉が口から吐き出された。それはずいぶん前から心の奥底に巣食っていて、武の日常をおびやかそうとしていた。跡継ぎになるため会社に行って業務に励み、休みの日はトランペットを吹く日々――家族はみな元気で、紗弥も小雪もそれぞれの人生を歩んでいて、それで十分だったはずなのに――

 紗弥の指が、武の髪を梳いた。何度も何度も指を入れて、子供をあやすようになで続けた。幼かったあの頃も、こうして慰めてくれた。

 掛け布団の上に頭を乗せて、体の力を抜いた。涙は止まらず、どうやって日々のことをこなしてきたのか、それさえも思い出せなかった。

「俺……おまえの葬式には行かないから」
「こなくていいわよ。ていうか死んでないし」
「死んでも行かない」