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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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切れない鋏 4.武の章 追悼本番

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「あんたが幸せになるなら、それでいいから」

 優しい響きをした声だった。幼い頃から心の支えになってくれたのは紗弥だけだった。同い年なのに姉のような彼女の優しさにずっと甘えてきた。もうそれもなくなってしまう。
 紗弥はそっと武の指をほどくと、綿谷に挨拶をして足早に店を去っていった。
 トランペットを構えなおそうとしたが、腕に力が入らない。

「……本当にいいのか?」

 首を垂れている武に向かって、綿谷がそう言った。トランペットを置いて立ち上がる。
 夜には本番があるというのに、体の奥から気力がわいてこない。

「何のことですか」

 しらばっくれていると、綿谷は静かに笑った。ねじまがった心を許容してくれる綿谷の優しさが骨身にしみる。
 緑色の業務用ダスターを手渡された。いつもの手順でテーブルをふいていく。

「親父さんは結婚までしなくていいって言ってたけどね」
「ここに来たんですか」
「うん、まあ。ランチを食べに」

 そう言ってゆるやかな笑みを浮かべる。どいつもこいつもおせっかい野郎ばかりだと訴えるつもりで、ふてくされた顔を作ったが、穏やかな表情で作業し続ける綿谷を見ていると、毒気が抜けていく気がした。

「……俺が望んだことですから」

 テーブルセッティングをする綿谷の笑みは崩れなかった。

「紗弥を幸せにするのは、綿谷さんの仕事ですよ」
「おまえがそう望むのなら、喜んで」

 紗弥が週に三回のペースでランチを食べに来ていることは綿谷から聞いている。友達だとか恋人だとかいうラべリングを紗弥が嫌っていて、二人がまだ甘い関係でないことも何となくわかる。今のままの平穏な日々が続いて、紗弥のそばに立つ男が綿谷だといい――そんな希望を勝手に抱いていることも、彼は受け入れてくれる。

「おまえにはプロ第一号としてこの店から巣立ってほしかったけど……残念だな」

 武が顔を上げると、綿谷は背をむけていた。現役時代は酒を飲んでは馬鹿話をしていたのに、いつから綿谷は本心を見せなくなったのだろう、とふと思った。

 綿谷もまた、プロプレイヤーの道を断念し、親の跡を継いだ人間のひとりだ。
 彼が大学在学中に親が急死し、長年ここの商店街で営業していた喫茶店の跡継ぎが必要になった。つがずに寂れかけた商店街から出て行くこともできたのに、綿谷は残った。

 店舗を改装して、店名も『ブラックバード』に改名し、ライブハウスを兼ねたジャズ喫茶としてスタートしたのが、五年前のことだ。必ずプロのトランぺッターになってこの店を世界中に知らしめてやると約束したのは、ほんのつかの間の夢だった。

 紗弥が持ってきた花かごを見つめた。彼女が好きそうな白や紫の花で埋められている。
 幼い頃に抱いた誰もが幸せな未来などどこにもない。ある日突然断ち切れてしまう命もある。大切にしたいものをこの腕に抱えきれないのなら、せめて平凡な幸せをつかんでほしいと祈るほかなかった。

「綿谷さん的には、次のプロ候補は誰?」

 話題の矛先を自分からはずしたくてそう言うと、拭き上げたテーブルを愛おしそうになでて微笑んだ。

「そりゃあやっぱり、愛美ちゃんかな?」
「あいつに先を越される日が来るとは、一生の不覚だな」

 悔しげにふるまってダスターを投げると、綿谷は声を上げて笑った。

 血のつながりはなくても、兄弟の絆はある――愛美や慎一郎や、両親が無条件にくれる尽きることのない愛情が、武を支えてきた。今度は自分が返す番だ――その気持ちが揺らぐことはなかった。

 唯一の気がかりは、オリエンテのベースを託してしまった彼女の存在だけだった。



 追悼セッションは『アイ・リメンバー・クリフォード・ブラウン』で始まった。
 交通事故死したジャズメンの追悼曲を弟の命日に吹くなんてクサいことはしたくない、と武自身は思っていたが、父がこよなく愛するこの曲はやはり外すことができなかった。

 トランペットの倍ほどの大きさがあるフリューゲルホルンを抱え、武はゆったりとメロディを奏でる。ホストバンドに指名したリズムセクションのメンバーはみな同じ高校の出身で慎一郎のこともよく知っている。

 プロのなったもの、就職したもの、家業を継いだものと進んだ道は違うが、ひと声かければ楽器を持って集まってきてくれることが、武には何よりありがたかった。

 客席のすみに小雪が座っている。薄茶色のくせ毛をゆるくまとめて、めずらしく黒いワンピースを着ている。慎一郎の時間は十六歳で止まり、小雪は二十一になったというのに、彼女の笑った顔はますます弟に似て、息がつまりそうなほど胸が苦しくなる。
 隣で信洋が何かささやいている。途端に心がにごった灰色に染まっていく。

 武は目を閉じる。曲に神経を集中させる。ドラマーがクラッシュシンバルを叩くタイミングも、ベーシストが不規則な動きを見せる瞬間も手に取るようにわかる。会話をするよりもたやすい心の交感が、演奏中は確かに存在する。

 拍手が鳴りやむのを待たずに、次の曲のカウントが始まる。

 二曲目は軽快なボサノヴァのリズムと単調なテーマが場を盛り上げてくれる『ウォーターメロン・マン』だ。この曲はとにかく慎一郎が好きで、楽器を持って顔を合わせるたびに「兄貴、スイカ男やろうよ」と言っていた。おどけた顔を作っては武を笑わせて、トランペットを吹きながら足で蹴りあったりしたものだ。

 曲の途中からアルトサックスプレイヤーが入ってくる。しばらく彼がバッキングを吹いたあと、武と目配せをしてソロを交代する。後ろに並んだトロンボーンプレイヤーと何コーラスずつソロを続けるのか相談して、コーラスの頭からバッキングを吹き始める。

 通常のコンボとは違い、セッションの時はソロについての細かい取り決めはない。曲の途中でドラムやピアノのプレイヤーが入れ替わることもあるし、誰かが突然クラベスやカウベルを叩き始めることもある。

 追悼セッションのときは曲間の休憩やMCもなく、ただひたすらに演奏を続ける。
 基本的にはホストバンドのメンバーがテーマに戻る合図を出すが、武も二時間出ずっぱりというわけにもいかないので、適当にドリンクを取りにいったり、またステージに引きずりだされたりする。

 綿谷も接客に回ったりドラムを叩いたりと大忙しだが、同窓生が多いせいか、いつもより陽気に会話を交わしている。

 セッション特有の緊張感と気だるさのさじ加減が武はたまらなく好きだった。

 中盤になって『モーニン』が始まった。トランペットとテナーサックスのユニゾンでテーマが奏でられる。紗弥に限らず、当時と変わらず楽器をやっている仲間は年を追うごとに少なくなる。現役時代のうまさやテクニックはなくても、今を生きて共に演奏できることが武には嬉しかった。

 紗弥を連れて来いと言った時も、彼女が承諾するなんて思っていなかった。「あんたなんかとやらないわよ」と言いながら、結婚式のビッグバンドは快く引き受けてくれる。それで十分だった。わざわざ信洋にまで話を持って行ったのは、あの実直な男を困らせてやろう、と意地悪な心が働いたにすぎない。