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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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切れない鋏 3.信洋の章 残骸

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 姉らしい微笑みを浮かべて信洋の肩に手を乗せた。紗弥は素早く時計を見ながら「あの子の逃げ癖はいつものことだけど」とひとり言のように言って、立ち去っていった。

 自分は一体何から逃げているのだろう。小雪の本音から、目の前の現実から、獅子のように立ちはだかるあの存在から――
 体が震えだしそうになるのをこらえながら、信洋は再び木製のドアノブに手をかけた。

                  ***

 その日の午後十時、『ブラックバード』での閉店作業を手伝いながら、信洋は武を待っていた。紗弥と別れたあと、武と話をする約束を取りつけた信洋は、スタッフに混じって武のライブを聴くことになった。

 トランペットとトロンボーンのクインテットだった。武以外はみなプロの奏者だ。他のライブハウスで聞けば数千円はするレベルだが、チャージはいつも通りの五百円だった。

 演奏を待っている間は、小雪のことで責めたてることばかり考えていたのに、ひとたび曲が始まると、星屑をかき集めたように輝くトランペットの音色に魅了されてしまい、雑念は吹き飛んでしまった。

 三年前、新入生歓迎のステージで信洋は初めて生のジャズ演奏を聞いた。仕事の途中に立ち寄ったのか、スーツ姿の武は堅苦しい鞄を持ったままステージに引き上げられ、後輩らしき人物から銀メッキのトランペットを受け取っていた。
 ドラムとベースを従えた武の演奏には、計算されたものが全くなかった。日常会話を交わすように目配せをし、のびやかな音色を響かせる。ピアニストもステージに上がってきて、勝手に弾き始めた。武の手招きで舞台袖にいたサックスプレイヤーも加わり、会場周辺の視線は一挙に武に注がれた。

 そこにいるすべての人間が武の従者となって音楽を生み出している――信洋はすっかり彼の演奏のとりこになってしまい、ジャズ研究会への入部を決めた。

 武との演奏は入部したときからの目標だった。当時よりも彩りを増した武のトランペットを聴いて、やはりその気持ちに変わりはないと思った。

 綿谷に頼まれて店頭の看板を下げに出ると、外はすっかり雪景色に変わっていた。電球の切れかけた外灯に映し出されて、雪は銀色に輝いている。

 信洋はくしゃみをして、鼻水をすすり上げた。予防注射が効かない体質のおかげで、毎年インフルエンザに悩まされてきたが、小雪に出会ってから冬が好きになった。

 彼女の雪うさぎのように白い肌は寒空の下に一層映えて、信洋の心をくぎ付けにした。

 有川慎一郎は雪の深い日に亡くなったと、愛美から聞いた。雪が降るたび、小雪はどんな気持ちで空を見上げるのだろうと思うと、嫉妬の気持ちはかき消えて素直に胸が痛んだ。

 店内に戻ると、カウンター席に武が座っていた。演奏が終わったあとの、すこし緩んだ表情で綿谷と何か話している。
 スツールをくるりと回転させると、信洋を見て言った。

「で、俺に話って何?」

 低くて聞き取りにくいいつもの声だった。憧れが強すぎて、武に意見できたことなど今まで一度もなかった。ひるんではいけない、そう自分に言い聞かせて口を開いた。

「武さんは……どうしてプロにならなかったんですか?」

 武はあっけにとられたような顔をした。丸い目をしたまま綿谷と目配せし、少しの間があったあと、クックッと喉をならして笑い出した。

「おまえ、他に言いたいことがあったんじゃないの?」

 思いのほか、明るい声だった。「ノブ、マジおもしろい」と言いながら腹を抱え、綿谷と一緒になって笑っている。信洋も思わず笑ってしまった。全身を覆っていた緊張の膜がはがれ落ちて、足元に散らばっていくようだった。

「なんかもう、武さんの演奏を聞いたら、どうでもよくなっちゃって」

 武はなおも笑っていたが、彼と本音で接する怖さはとうになくなっていた。

「なんだっけ、なんで俺がプロにならなかったって? そんなこと聞いてどうすんの?」

 綿谷が水の入ったグラスを二つ並べてくれたので、信洋は隣のスツールに腰かけた。

「今日一緒に演奏してたプロの人たちより、正直、武さんの方がすごいと思いました」
「そりゃどうも」
「大学を卒業する直前までプロを目指してたって、マナから聞いたことがあるんです。なにか理由があったんですか?」
「理由……ねえ」

 武はグラスに口をつけたあと、遠い目をした。信洋は武の言葉を待った。
 どれくらい時間が経ったかわからないが、グラスの氷がカラリと音をたてて溶けると、武は口を開いた。

「慎一郎のことは聞いてるか?」

 信洋はうなずいた。武は顎のあたりをなでると息を吐いて言った。

「シンが事故にあったのは、俺が大学四回の冬だった。卒業したら俺はプロプレイヤーになって、シンが親父の会社を継ぐはずだった。でもシンがあの世へ行って、俺が会社を継ぐことにした。それだけのことだ」

 あっさりと言ってのけたが、そう簡単な決断ではなかったはずだ。プロとして花開く可能性をこれほど秘めているのに、あきらめなどつくはずがない、と信洋は思った。

 信洋の父親は中小企業に勤めるサラリーマンで、後継ぎ騒動には程遠いが、いずれは兄弟のいない信洋が家を継ぐことになるだろう。遺産の整理をすることはあっても、自分の生き方を変えるつもりはないと、老いた両親を見るたびに思っていた。

「それでも自分の道を貫こうとは考えなかったんですか?」

 信洋は率直に言った。音楽に関してはいつだって意志の塊のような武が、弟が亡くなったとはいえ、何故こんなにも早い段階でプロの道を断念したのか納得がいかなかった。

「なんで慎一郎なんだって、思わなかったか?」

 信洋が首をひねると、武は「名前だよ」と言った。それからテーブルに落ちた水滴を指にとって、「慎一郎」と言いながら横に引っ張った。漢字の『一』を示しているらしい。
 武が言葉を待っている。信洋は思いついたことを口にした。

「たしかに……『一』の字は長男につけることが多いですけど、なにかご両親の想いがあったのかもしれないし……」

 信洋が言いきらないうちに、武は首をふった。いつの間にか綿谷はカウンターから姿を消していた。武の髪が揺れる音まで聞こえそうなほど、店内は静かだった。

「俺たち三兄弟に、血のつながりはない」

 武の声はくっきりとした輪郭を持っていた。彼の言ったことを瞬時に飲みこめず、信洋は呆然とした。
 武がこちらを見ている。信洋の挙動をつぶさに観察して、話をするに足る相手かどうか見定められている。信洋は唾を飲んで言った。

「……小雪と紗弥さんのように、ご両親が再婚されたということですか?」

 信洋の答えが予想通りだったのか、武はかすかに笑っていった。

「それは違う。俺とシンは養子で、有川家の実子はマナだけだ。俺には引き取られる以前の記憶もあるが、シンはまだ赤ん坊だった。生まれたときのあいつはたしかに長男だったのさ」

 武の口元がゆるい弧を描いている。演奏中の猛々しさはどこにもなく、ただ一人の人間が信洋の隣に座っていた。