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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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切れない鋏 3.信洋の章 残骸

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 パンツスーツ姿の紗弥はふりむきもせず、信洋の太い腕をぐいぐいと引っぱってくる。そんなに力はないはずなのに、なぜか振りほどけない。

「行くって、どこへですか?」

 されるがままになっていると、紗弥はコインパーキングの前に立ち止まって言った。

「あんなしょうもないもの見てないで、ランチに付き合いなさい」

 紗弥はすばやく車のロックを開けると、信洋に助手席に乗るよう指示した。信洋がしどろもどろしていると、紗弥はさっさと運転席に入ってしまった。

 眼鏡の奥にある二つの目が、早く乗れと威嚇してくる。
 信洋は小動物のように縮こまって、その意志に従うほかなかった。



 車を十五分ほど走らせ、向かったのは『ブラックバード』だった。
 運転中、紗弥は一切口をきかなかった。いつもカーステレオをつけている信洋にはエンジン音だけの車内が落ち着かなかった。ましてや隣に座っているのは小雪の姉だ。信洋は紗弥の横顔をうかがったり、先ほどの光景が眼前にチラついたりと、ひとり忙しくするしかなかった。

 ランチ営業中の店内は、にぎやかな喧騒に包まれていた。ライブのある夜とは違ってステージ上にまでテーブルが並べられ、白いグランドピアノは申し訳なさそうに隅におさまっている。日射しが差しこむ明るい店の中を見渡していると、紗弥はカウンターに向かって歩き出した。

 うながされて背の高いスツールに腰を下ろす。綿谷がグラスを持ってやってくる。

「紗弥ちゃん、新しいボーイフレンド?」

 綿谷が緑の眼鏡を上げながらわざとらしく言った。

「違うでしょ。妹の、可愛いボーイフレンド。路頭で彷徨ってたからかっさらってきたのよ。たまには年下も悪くないでしょ?」

 そう言って紗弥はにやりと笑った。信洋はうろたえて言葉も発せなかった
が、綿谷は慣れた様子で「ハイハイ」と言いながら、キッチンにひっこんでいった。

「お姉さんがおごってあげるから、お腹いっぱい食べなさい」
「え? いや……そんなのいいですよ」
「いいから年上の言うことに従う!」

 強い口調で言いながら顔をよせてきたので、信洋は首を縮めて返事をしてしまった。
 綿谷がガラスの小鉢に入ったサラダを並べると、紗弥は「いつもの」と言った。

「あの……いつものってなんですか?」

 手渡されたメニュー表から顔を上げて聞くと、紗弥はため息をついて言った。

「人のこと気にしてないで、自分で食べるものくらい自分で決めなさいよ。小雪といるときもそんな調子なの?」
「そうですね。小雪さんに食べたいもの選んでもらって、分けてます」

 あのねえ、と言ったきり紗弥は黙ってしまった。頬杖をつくその姿は、先ほどの武を鏡写しにしたように似ていた。

「みんながよってたかってあの子を甘やかすからいけないのよね」

 きつい言葉を言っていてもどこか優しい含みもあって、信洋は笑ってしまった。

「お姉さんもそのひとりですか?」
「そうよ。っていうか、私の前で小雪さんって言うのやめなさい。小雪でいいし、私のことも名前で呼べばいいから」

 そう言って紗弥はサラダを食べ始めた。メニュー表にふたたび視線をはわせながら、そういえば愛美が「紗弥さん」と言っていたことを思い出す。
 綿谷にカツカレーを注文してから、「ごちそうになります」と頭を下げた。

 それからまた武の顔が思い浮かぶ。紗弥のむこうの席は、武の特等席だ。ライブの前後はいつもカウンター席の隅に座って、トランペットを構えている。

 ついこの間まで小雪とドラムのことで頭がいっぱいだったのに、このところそこへ武の立ち姿が侵入してきて、その度にかき消そうと無駄な努力をしてしまう。

「また余計なこと考えてるでしょ」

 食べなさい、といわんばかりに紗弥はフォークをさし出してくる。

「あの二人が付き合ってるなんてことはないから、忘れるように」

 具体的な名前がでなくても、誰の話をしているかはわかった。男女のことなど結局は本人たちにしかわからないのに、なぜ紗弥は核心を持って言えるのだろうと不思議に思った。

「あの……紗弥さんは武さんと付き合ってたこと、あるんですか?」

 ずっと疑問に思っていたことをぶつけてみた。まともに顔を見ることもできない。紗弥の視線を感じると、こめかみから冷や汗がにじみ出そうだった。

「あいつとはそんなんじゃないのよ。なんていうか、腐れ縁っていうか」

 歯切れの悪さに、怒られると思っていた信洋は拍子抜けした。紗弥の表情は、意外にも穏やかだった。グラスに口をつける姿からは、どこか寂しささえ感じた。

「恋愛関係にはならない、友人ってことですか?」
「うーん……結婚だけはぜったいないわね。あんなやつと一緒になったら奈落の底よ。ま、あっちは結婚決まったみたいだし、もうどうでもいい話だけどね」

 綿谷が運んできた白いプレートを受け取って、紗弥は早々と食べ始めた。メインは明太子のスパゲティのようだった。頂点に盛りつけた大葉をくずしながら口に運び、もう信洋を見ようとしない。見えないカーテンをさっとひかれてしまった気がして、それ以上のことは聞けなかった。

 カツカレーをたいらげてしまうと、尖っていた神経が少し和らいだ気がした。紗弥に勧められるままにデザートを頼み、綿谷も交えてくだらない話をした。

 紗弥は思っていた以上に頭が切れて会話もうまくて、けれど思慮深いところもあって、家族を大切にしているようだった。綿谷にむけられる眼差しはとても温かくて、好意をよせているようにも感じられた。

「あ、やば。そろそろ戻らないと。綿谷さん、いつもありがとね」

 紗弥が腕時計に目配せすると、綿谷は大きなグラスを拭きながら「いえいえ」と言った。口数は少ないけれど、自分たちをいつも優しく歓迎してくれる。こういう人にならなければ、と信洋はこっそり思った。

 紗弥とそろって出入り口のドアを押すと、目の前に小雪と武が立っていた。
 お互い目を見張った。武の表情に変化はなかったが、小雪の口元が「ノブ」と小さく動いたのがわかった。

「何しに来たの」

 硬直した空気を破ったのは紗弥だった。武を見上げながら、冷たく言い放つ。

「何って、追悼セッションの相談だけど」

 武は何事もなかったように、ひとりで店内に入っていった。取り残された小雪が所在無くマフラーを握りしめている。

「で、あんたは」

 紗弥に声をかけられて、小雪の肩が動いた。信洋はその挙動をつぶさに見つめた。戸惑ってばかりでは、真実を見分けられない、と自分に叱咤をかけた。

「私もそのつもりだったんだけど……今日は帰るね」

 小雪はそう言って身をひるがえした。信洋はとっさに腕をつかんだ。

「送ってくよ。四時からバイトなんだろ?」
「いいよ。ノブだって予定があるでしょ」

 信洋は首をふったが、小雪は紗弥を一瞥したあと、「いい」とつぶやいて腕をふりきった。
 入れ違いに他の客が入店しようとしたので、紗弥は信洋の体を外に押し出して扉を閉めた。「まったくあの男は」とため息をついたあと、信洋にむかって言った。

「逃げてないで、ちゃんと話しなさいね」