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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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切れない鋏 3.信洋の章 残骸

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 頭に浮かんだ映像はくっきりと輪郭を持って迫ってきた。おそらく小雪が『モーニン』の流れる車内で見ていた横顔。獅子のように逆立てた黒髪、自信に満ち溢れた瞳、揺るがない頼もしい背中。光のすべてを凝縮したような音色を放つ金色のトランペット――

 信洋は自分の手のひらが小刻みに震えていることに気づいた。小雪の憧れは自分の憧れと同種だと、どうして今まで信じて疑わなかったのだろう。あの小さな体に秘められた強い意志と熱情に、どうして気がつかなかったのだろう。
 そこまで思考が巡って、小雪が抱えている荷物の重さが少しわかった気がした。
 彼女は慎一郎の遺志を受け継ごうとしているのではない。

 弟を失った有川武のために、あの古びたウッドベースを背負っている――

 曇った眼鏡のむこうにある瞳と、視線がぶつかった。分厚いグローブのようになった手のひらでベースのネック部分を包み、不意に何かの曲を弾き始めた。
 三拍子のだということはわかったが、コード進行に疎い信洋には何の曲かわからなかった。小雪が弾く時よりもずっと深く静けささえ感じる音色をしていて、ささくれだった気持ちがおさまっていくようだった。

「俺、いつでもこのベース運ぶからさ。メンテナンスに来たいときは言ってくれよな」

 信洋が立ち上がってそう言うと、小雪はうなずいた。どんな事情があったか知らないが、今回はドライバーに自分を選んでくれた。そのことに自信を持とうと思った。

 リペアのすんだベースをケースにおさめ、小雪が持ち上げようとしたその時、紙切れがふわりと床に落ちた。
 先刻、愛美が破り捨てた『ハウ・ハイ・ザ・ムーン』だった。リペアラーの男性はよっこらしょと重そうに腰をかがめて、真っ二つになった譜面を拾いあげた。

「おや、懐かしい。慎一郎君のハウハイだね」

 小雪は気まずそうな視線を信洋に送ったあと、すみません……とつぶやいた。
 彼は破れた上半分の譜面を光に透かすようにして、指で丸を描いた。

「このあたりはね、私が作ったんだよ」
「え……本当ですか?」
「オリジナルのベースラインが作りたいけれどどうしても浮かばないと言って慎一郎君が泣きついてきたんだ。きっかけを与えたら残りはすんなり出たみたいで、彼らしく仕上がってるね」

 目尻の皺を寄せながら微笑むと、譜面を重ねて小雪にさし出した。

「すみません、そんな大事なものを破ってしまって」
「破ったのは君ではなくて、きっと愛美ちゃんだろう?」

 小雪と信洋が目をあわせて「え?」と素っ頓狂な声を出すと、彼はあごひげをさすりながらホッホッと笑った。

「君に譲り渡す前のメンテナンスに来た時も、そんなのは駄目だと言って怒っていたからね。ここのベースまで壊されるんじゃないかと思って、あわててうしろに引っ込めたよ」

 彼は眉をしかめて面白そうに笑った。愛美が地団太をふむ様子が眼前に浮かぶようで、信洋も思わず笑ってしまった。

「大切なものは人それぞれだ。君は君らしくベースを弾くといい」

 彼がそう言って柔らかな眼差しをむけると、見る間に小雪の目元が緩んでいった。
 ありがとうございます、と言って頭を下げるその姿は、本当に小さな少女のようだった。
 ベースを持ちあげるタイミングに合わせて、信洋は小雪のトートバックを手に取った。

「そうだ、ノブがドラムを叩いてくれたら、自分らしくベースが弾けるかな」

 明るい声でそう言った。何のことかわからず首を傾げると、小雪は続けて言った。

「追悼セッション、ノブも一緒に出られないか、タケ兄に聞いてみるよ」

 リペアラーの助言のおかげなのか、小雪はここに来る時よりも晴れやかな表情になっていた。信洋は調子を合わせて「そうだな」と言ってみたものの、「人身御供」という言葉はいつまでたっても脳裏から消え去ってくれなかった。

                 ***

 翌週のはじめ、信洋はドラムの教則本を買い求めて繁華街に出た。試験期間中、アルバイトの時間を短くしていた小雪は、終わった途端、めいっぱいのシフトを組まれたらしい。お金は必要だし、仕方ないねと笑っていたが、体を壊さないか心配だった。

 その日は朝からよく晴れていた。着てきたダウンジャケットを片手に持ち、生きいそぐ人々を横目に、からっぽの予定に思いを巡らせる。教則本を買ったあと、大学のトレーニングルームで体を動かそう、と駅に向かって足早に歩いた。

 ふと新しくできたカフェの前で足が止まった。女性好みのおしゃれな看板を出すその店に信洋は抵抗があったが、以前、愛美が「入ろうよー」と大騒ぎしていたのだ。

 あの時はライブを見に行く途中だったので小雪と二人で愛美を引きずるようにして立ち去ったのだが、小雪とくるならそれも悪くない、と思った。

 大きなガラスの向こうに、女性客がひしめいている。冬の陽光はまばゆくその光景を照らし、ティーカップから立ち上る紅茶の湯気の香りまで漂ってくるようだった。
 流れる雲が太陽の光を遮り、店内がよく見通せる状態になった。

 店の一番奥に小雪がいた。ゆるいウェーブの髪をたらして、にこやかに会話をしているようだった。

 思わず前に歩み出しそうになって、巨大なガラスの存在に気づいた。窓ガラスのそばに座る女性が信洋の挙動に気づいたのか、クスクスと笑っている。

 信洋は自分の顔がゆでだこのように染まるのを感じながら、入り口に向かって歩き出した。小雪がこちらに気づいたかなと思ってふりかえると、小雪の対面に座る人物の顔がよく見えた。

 そのとき、周囲の音は一瞬にして消え去り、あれほどいた人々の姿も消え去ってしまった。心臓は動きを止めたかと思ったが、そうではなく、自分が呼吸を忘れていた。

 武だった。ライブのときのように髪を逆立てず、無造作にうしろにかき分けているので別人かと思ったが、Vネックセーター姿で頬杖をつくその姿は見間違えようがなかった。
 視線の先にいるのは、疑いようもなく小雪だった。

 どんな会話をしているのかわからないが、二人は屈託なく笑っていた。信洋の知る限り、武の前であんなにくだけた表情をしている小雪を見るのは初めてだった。

 教則本の入った袋を持つ手の中が汗ばんで、この場を離れないといけない、と思った。
 それなのに足が動かない。顔をそらすこともできない。ここで見つかってはまずい――

 どうして自分が立ち去らないといけないのか、その理由も見つけられないまま、信洋は雑踏の中で立ちすくんでいた。

 誰かが信洋の肩を叩いた。
 驚きのあまり飛び上がってふりかえると、そこには意外な人物が立っていた。

「小雪の……お姉さん?」
「いたいけな少年よ、今のは見なかったことにしなさい」

 そう言って信洋の腕をつかむと、強引に引っぱって歩き出した。
 どうやっても路面からはがれそうになかった二本の足は呪縛から解かれ、上半身にひきずられるように動き始めた。

「あの……なんでこんなところに」
「外回りの最中なの。むこうに車を止めてるから、行きましょ」