ひき逃げ
そんな事を喚きながら、亭主は、俺の身体を滅多打ちにし続けた。俺は、何度も、このバカ亭主を返り討ちにしてやろうかと思ったが、相手が、イエラの亭主だから思い留まった。
彼は、増々手が付けられないほど興奮の度を高め、ついには、ポケットからナイフを取り出し、彼女目がけて刃を振るった。咄嗟に、俺は、彼女を庇い、その所為で、右の太腿辺りを傷付けられた。もう我慢の限界だ。
「この野郎、ぶっ殺してやる!」
と、俺が、立ち上がった時に、通報を受けて駆け付けた警官数名が、亭主を取り押さえた。
だが、逆上した俺は、自分を制止する事が出来なかった。亭主を連行している警官達の背後から、腕を伸ばして奴を奪い、2~3発ぶん殴った。
慌てて俺を止めに入る警官・・。俺は、その警官の一人を振り払い、背後から俺に抱き付いている警官をズルズルと引き摺りながら、尚も亭主に迫り、俺の太腿に刺さったままのナイフを抜き取り、それで彼の息の根を止めてやろうとした。
その時、いきなり後頭部に激痛が走り、俺の意識は、飛んで行った。警官が、警棒で俺を強か打ったのだ。
意識が戻ったのは、翌日。運ばれた病院のベッドの上だった。
傍には、イエラとその友人一人、そして、マスターと呼ばれているおっさんが居た。
飲み屋のマスターは、俺に言った、
「暫く此処を離れろ。わしが、新しい棲み家を世話するから・・ 好いな、わしが、呼ぶまで絶対に帰って来るんじゃないぞ。」
と。
そして、俺は、ベッドに寝かされたままで、後に俺が生涯の師と仰ぐ人、キダの家に運ばれた。
その家で、痛みの残る身体に苛立ちながら、俺は、玄関の前で一日を過ごす。
前の道を通る人すべてが、俺の事をジロジロと見る。
(なんだよ、品定めかい・・)
俺は、そう思いながら、相手かまわず睨み付ける。
俺が睨むと、相手は、急に眼を逸らす。逸らして、俺などにはまるで関心がない様な素振りで通り過ぎる。
だが、一人の男だけは違った。
彼は、俺がいくら睨み付けても、ニヤニヤと笑顔を返した。
やがて、俺達は、話をする様になった。
「俺、サンバン・・」
「あら、珍しい名前ね。わたし、チェリー(ほんとは、別の名を告げた)っていうの。」
「・・・」
「ふふ・・ 驚いた? わたしが・・、こんなわたしが、オカマじゃ可笑しい?」
「あ、いや・・そうじゃないが、・・出来れば、名前を言う前に、あんたの状況を話して欲しかったな・・、俺にも、些か心の準備ってのが必要だから・・」
「ははは・・ 面白い表現ね。いいわ、気に入ったわ。これから、あんたと付き合ってあげる・・」
「どう付き合うんだ?」
「いやだねぇ・・、急に心配そうな顔になって。大丈夫よ、取って食ったりしないから・・」
兎に角、チェリーとの初めての会話は、そんなものだった。
以来、俺達は、急に親しくなった。
彼、いや彼女は、大柄で、顔も可愛いなどとは、死んでも云えない。見るからに精悍な男。だが、内面は、まごう事無き女性だ。彼女は、言う。
「そりゃ、わたしも、自分がそうだと分かってからは、何度も神を恨んだわよ。でもね、ある時、悟ったの。例え、姿形が醜くて、声も女性のそれとは程遠くても、わたしは、やはり女。これが、わたしなのよと、生きて行くしかないのよ。」
いただき
大体にして、この国の人達は、一体何処からそんな情報を? と、真偽のほどを少々疑いながらも、つい話の中にのめり込んでしまう様なトピックを収集する能力に長けている。
日頃、仕事がなくて、其処此処で屯している集団の中には、必ず情報通として通っている者が一人や二人は居る。その情報通の話を聞き、真偽のほどを動物的とも云える勘で取捨し、飯の種とすべく策を練る者も居る。
飯の種は、結果、それぞれが煙草1本ほどにしかならないものから、相当ヤバイ橋も渡らねばならないけれど、かなりの間、喰うに困らない程の成果を得るものまで様々である。
俺達の屯仲間であるチトは、何処で誰とでも、すぐに十年来の友人であるかの様に親しく成れる性格から、俺達の仲間の情報屋として位置付けられている。
「明日の飯がない・・」
と或る者が嘆けば、
「○○という店で力仕事の出来る者を探してるぞ。」
などと、一日や二日は、喰って行ける仕事を紹介する。
聞いた者は、それで命を繋ぐ事が出来る。
勿論、チト自身も、紹介料なるものを、雇用する者・される者の双方から、仕事の内容に応じてしっかりと頂く。
おっさんの店で働く様になって、俺は、チトと知り合った。
最初は、客と従業員の関係。それが、何時しか、馴れ馴れしく話し掛けて来る彼と親しくなった。
彼には、楽器の演奏を生業としている仲間が多かった所為もあり、その付き合いは、自然深くなって行った。そうした付き合いの中で、俺とニッキも彼の紹介で知り合ったのだ。
また彼は、知人も多く、俺の働く古ぼけた店にそれら知人を頻繁に連れて来た。
彼は、知人達に好みの女性が出来ると、俺とのコネを生かして、
「あの子とあの客の便宜を・・」
と俺に話す。俺は、
「ああ、好いよ。」
と、便宜を図る。
ただし、俺が図る便宜は、店の中でだけと決めていた、春を売り買いする奴等に利用などされたくはないから。だから、
「あんたが、好いと思う処までの付き合いで好いよ。もし、何か困った事でも起きれば、俺に言いなよ。」
と、店の女の子達には必ず言い、時には、偉そうにその相談にも乗った。
さて、怪我をしたニッキの当面の治療費と生活費は、チトの車を売り払った金でなんとか賄える。
あとは、彼が、怪我をする前の様に、楽器を演奏して生活が成り立つまで曲がりなりにも喰って行けるだけの金を用意する事。
そして、ひき逃げという悪辣な行為をした奴に、些かなりとも制裁を加え、俺達が溜飲を下げて、ついでに幾ばくかの飯の種を頂く事。
ひき逃げチャイニーズの周辺を調べるうちに、俺は、彼が、ある有名なレストランに足繁く通っているという情報を得た。
そのレストランは、ロハスボリバードという広い通り沿いに在る。
俺は、レストランの駐車場が見える処に座り、チトから聞いたナンバーの車を待ったが、
その日は、折悪しく目的の車は、レストランに現れなかった。
だが、どうって事はない。ふとした思い付きでも奴がこの高級レストランに足を運ぶ時間を作れる様に、俺にだって、思いのまま使える時間だけは、彼以上にたっぷりとある。彼の姿を拝むまで、1週間でも2週間でも待っているさ。
おっさんの店の仕事を休み、夕方から深夜まで待ち始めて四日目、ついに彼が現れた。
その姿から、彼が中国系の人物であるのは、遠目にもすぐに分かった。まだ、30代前半に思えたが、そのでっぷりと太った体形に申し訳程度にくっ付いた短い脚で色白。その姿は、既に彼の20年後の姿をも容易に想像出来るものであった。
「お兄さん、あのチャイニーズ、何て名前だったかなぁ・・ 俺、一度だけ会った事が有るんだけど・・」
と、駐車場で、店から頼まれもしないのに、勝手に客達に車を駐車する場所を指示したり、停めた車に悪戯などされない様に見張って、某かの小遣い銭を稼いでいる男に俺は訊いた。
「ああ、ミスター・シンの事か?」