ひき逃げ
チェリーの話し方で、すぐそれと分かったチトは、しどろもどろで、やっと言葉を返した。
車を始動させて、マニラから南へ伸びるハイウェイに載る。
そして、エンジンが温まるかどうかという間に、最初のインターチェンジであるカルモナで降りる。
尤も、この国は、常夏の島国だから、ジリジリ照り付ける陽射しの所為で、車が走り出す前からエンジンどころか車じゅう熱くなっている。
カルモナのインターチェンジを出ると、この国でも有名な私立校のひとつであるコレギオ・サン・アウグスティンが在る。その建物を左に見ながら、車は、暫く平坦な道を小高い丘に向けて走る。
樹は、数えるほどしか生えていないにも関わらず、誰が名付けたのかサウスウッズという見通しの良い広大な原っぱは、いずれ高級住宅地として売り出す目的で、大手企業に買い占められているそうだ。
その平地を過ぎると、この国の庶民の足であるジプニーやトライシクルが激しく行き交う大きな通りが南北に伸びている。
ジプニーもトライシクルも大きな音を発て、黒い排気ガスを巻き散らさねば客達が満足する速度で走れない中古の改造車だ。
<どうせ俺は、修理に修理を繰り返されながら走り続ける運命さ。そして、ついに持ち主の手に負えないほどダメージを受けたなら、屑鉄の回収業者に買い叩かれて溶鉱炉にぶち込まれ装いを新たにする。だが、生まれ変わっても所詮、鉄は鉄。次に生まれ変わてもまた車になるのかなぁ。そして、また、生きる為に必死に働かねばならないドライバーにこき使われてボロボロになるまで走らされる・・、ああ~嫌だ。どうせなら少々袖の下を使ってでも何処かのマンションの柱として静かに暮らせる鉄に成りたいなぁ。良いだろうなぁ、柱は走らなくても良いって、ダジャレかい! と、まあ、こんな一人芝居でもしながら走らねばやってられないわ。>
などとブツブツ言いながらアクセルを踏まれている車の思いなど知るもんかと、汗だくで客を乗り降りさせるドライバーもその人生に少なからずやけっぱちになっているから、互いに意思疎通さえ出来ればもう少し明るい未来が望める筈だ。
だが、ドライバーは鉄語を、鉄はタガログを理解出来ないから、互いの輪廻を相憐れむことが出来ない。
話を戻すが、サウスウッズから大通りに出た辺りから道は丘へと登り始める。
昇り始めた辺りから、ゴミゴミとした、『ああ、この国の見慣れた風景だな。』と感じる少しずつ増築に増築を繰り返したことが誰の目にも分かるお馴染みの家々が並ぶ。
更に進めば、教会。それに続いて市場とこじんまりとした商店が20~30軒道路の両側にある。続いて静かな住宅街が広がる。一万人余りの人々が、喜怒哀楽と共に暮らしているサンホセジサスと呼ばれる地域だ。
教会から歩いて3分ほどの位置に、この国に住み着いている日本人、キダの住まいが在る。
俺は、その住まいの玄関の前に、顔をしかめながら座っていた。
まだ、身体じゅうに痛みが走る。
マニラの片隅、この辺りでは珍しく日本人の経営する、1軒の飲み屋が在る。
珍しいと言うのは、その日本人の事でもあるが、それよりも、その一角でフィリピン人以外が経営する店は、彼の店だけである。
田舎の漁村からこの街に出て、やる事なす事すべてが上手く行かず、ついに行き倒れ同様の姿で道路脇に寝ていた俺に、
「お前、日本人か?」
と、突然声を掛け、俺が、頷いただけで、
「付いて来な。」
と言った切り、無言で歩き始めた彼。
俺は、そのおっさんの後をノロノロと付いて行った。
徐々に寂れて行く街の風情・・。何も覚えていないが、それだけは印象に残っている。
おっさんは、その一角に在る古ぼけた飲み屋に入った。
「いらっしゃ~い!」
と、女達の声が響く。そして、
「な~んだ、マスターじゃないの・・」
と、その中の一人が言った。マスターと呼ばれたそのおっさんは、
「この男に、何か食わせてやれ。」
と言い、ドアの向こうに消えた。
俺は、薄暗いフロアの隅っこに在るテーブルに座らされ、チッチャロン(ブタの皮を油で揚げた食べ物)と甘いコーヒーを与えられた。
「あんた、日本人? ・・・・そう・・、日本人には見えないね。何処から見ても、この国の人だよ。」
そう言いながら、イエラという名の三十半ばの女性は、俺の正面に座った。
「名前は?」
「サンバン・・」
「珍しい名前だね・・」
「サンバンは、ニックネーム。だけど、俺を本名で呼ぶ奴など居ない。」
「どうして、サンバンなの?」
「Sun burn と最初は、呼ばれていた。だけど、何時の間にか、みんな、サンバンと呼びだした。」
「そう・・」
「そう。」
「・・あんた、付いといで・・。今夜、あんたが、寝る部屋に連れて行ってあげるから。」
と、俺は、まだ食べ終わっていないのに、その女性は、席を立った。
翌日から、俺は、この薄汚い店の居候となった。
2日目から、ただ其処に住むだけで何もしないのも悪いかなと、フロアやテーブルの掃除・二階の空き部屋の掃除・ビールの空瓶の片付けなどをし始めた。
その店には、小さなステージが在り、殆ど毎日、生バンドの演奏をしていた。
居候、兼掃除係りを始めて2ヶ月ほど経ったある時、俺が、鼻歌を唄いながら開店前にフロアの掃除をしていると、
「あんた、意外に歌が上手いじゃない。」
と、何時の間にか、店に来ていたイエラが言った。
「何か楽器は出来るの?」
「ギター・・かなぁ。」
「そう・・」
それが切っ掛けで、俺は、他のバンドの都合がどうしてもつかない時に、ステージで歌わされる羽目になった。
ギターなど人前で弾けるほど上手くはない。歌だって、車の騒音よりややマシかという程度で俺がかき鳴らすギターの音と変わりはしない。だが、何故か俺は、ステージで歌わされ始めた。
(どうせ、この店の客は、歌など聞いている者など居ないさ。それぞれ、目当ての女の子を口説く為に躍起になっているのだから・・)
と、そんな思いが、後押しをした所為だ。
英語やタガログの発音が悪いから、日本語の歌を歌った。それで充分だった、案の定、歌など聴いている者は、居なかったから。
そうこうしているうちに1年が過ぎた。
その頃になると、俺は、店で働く女同士の諍いを取り成したり、特定の女性を目当てに来る客の便宜を図ったりで、ある意味、店の顔になっていた。
イエラには、別れた亭主が居た。別居し始めて既に5年近いというのに、彼女の亭主は、頻繁に金をむしんに店に現れる。その時、ィエラは、
「もうこれで最後だから・・」
と、必ず同じ台詞を吐きながら、なけなしの金を渡した。
その日の夜も、久しぶりに亭主が幾許かの金を当てにして店に現れた。
丁度、折悪しく、イエラは、前日に子供の学費を支払ったばかりで、手元には、家に帰る為のジプニー代程度しか持ち合わせが無かった。彼女は、初めて亭主からのむしんを断った。
亭主は、激昂した。そして、イエラの髪の毛を掴み、路上で彼女を振り回した。勢い余って路上に倒れるイエラ。その彼女を、尚も亭主は、しつこく痛めつける・・
俺は、無抵抗のイエラを守る為、倒れたままの彼女に覆い被さった。
亭主の矛先は、俺に向けられた。
「お前が、うちの奴の男か!」