ひき逃げ
実は、彼が乗っているオンボロ車を買う時に、彼は、ニッキに借金を申し込んだ。
「すぐには返せないけど、必ず少しずつ返すから・・」
そういうチトに、ニッキは、何も言わず金を貸した。
借りた金を少しずつ返すと約束したチトだが、実際の処、返金は、ふた月・三月に一度だけ。それも、毎回金額は一定ではない。
だが、ニッキは、そんなチトを責めることなど、まったくしなかった。それを良い事に、チトは、
(少しずつでも返せば、そのうち借金は終わるさ。)
程度に、至って気楽に考えていた。
或る日、僅かばかりの金を持って、チトは、ニッキの住まいを訪ねた。そこで、四方山話をしているうちに、ニッキの結婚の話になった。
「何をモタモタしてるんだ。早く嫁に貰ってやれ。」
というチトに、ニッキは、指輪の話をした。そして、
「結婚式も挙げないで一緒になるんだから、せめて指輪だけは、どうしても用意してやりたいんだ。」
と、独り言の様に言った。それを聞いたチトは、複雑な気持ちだった。
無論、ニッキが、金を僅かずつしか返さないチトを責める為に、指輪の話をしたのではない事は分かっている。 それだけに、尚更チトは、自分の所為で、二人の結婚が延びているのだと、強く反省した。
その数日後、チトは、大事にしていた自転車を、1700ペソで売った。そして、
「あと2000ペソ・・」
と言ったニッキに、少しでも早く指輪を買わそうと、彼に連絡を取った。
「ああ、ありがとう。ところで、サンバンが、今夜『工場』に来るんだ。お前も、そこに来ないか?」
そう楽しそうに話すニッキに、チトは、必ず『工場』へ行くことを約束し、その日の夕方、車で向かっている途中、事故の現場に出くわしたのだ。
驚いたチトは、救急車が着くまで、ニッキの傍に居た。
物見高い人達が、周囲を囲んだ。
その周囲の人々の話から、チトは、ニッキに怪我を負わせ、そのまま走り去った車の車種とナンバー、そして、その車を運転していた人物の住まいを知る事となった。
「車種とナンバーだけではなく、運転していた奴の家まで分かっているだと? お前にしては、大手柄だな・・ よし、後は、俺が何とかするから、他にお前が知っている事を全て話せ。」
「・・ああ、好いけど・・」
「早く言えよ。ニッキの治療費とか、仕事が出来ない間の生活費とか、俺が、充分過ぎるほどふんだくってやるから。」
「怒るなよ、そんなに・・」
「誰が、怒ってる!」
「だから・・ サンバン、お前が、そんな顔をしている時は、今までだって碌な結果になっていない。お前が、性懲りもなく、俺の教えたひき逃げ野郎の処に行って暴れたりすると、成る話も成らなくなるから・・・」
「そんなに暴れたりしないから・・、それに、この顔は、生まれつきだ。だから、頼む、教えてくれ。」
などと、充分過ぎるほどの押し問答の末、俺は、加害者の住まいと車種、そして、車のナンバーを聞き出した。
なんとその住まいは、事故現場から目と鼻の先。数年前に、何処かから引っ越して来た金貸しを生業としている家の放蕩息子だそうな。チトの話が一段落したところで、
「それは、それとして、当面の問題は、病院の支払いだ。少しでも支払わなかったら、充分な治療が受けられないから・・」
と、俺は言った。
この国の医療は、当に金次第。裕福な者は、どんな最新の治療でも受けられるが、医療費の払えない者は、ただベッドの上で死ぬのを待つだけだ。だから俺は、
「チト、ちょいと車を借りるぞ。金の工面に行って来る。」
と言った。
「ああ、それは構わないけど・・、サンバン、お前、運転免許は有るのか?」
と訊くチト。
「無くは、ない。」
「・・って、有るって事か?」
「まあ、早く言えばそうだ。」
「勿体ぶった言い方をするなよ。」
大事に乗ってくれよと、チトが、キーを渡す。俺は、それを受け取って、車に乗り込んだ。
そして、3時間ほどで、俺は、再び病院に帰った。
「さあ、これで当面は、乗り切れるだろう。」
と、差し出した金を見て、その場の者達は驚いた。
「サンバン、一体、何をどうしたんだ? こんな大金、お前が、すぐに用意出来る筈がない。何処に盗みに入ったんだ?」
「人聞きの悪い事をいうなよ。ちょいと、お前の車を売っただけだ。」
「えっ? 今、何と言った? 車を・・売った・・だと?」
頷く俺。
「ああぁぁぁ~~・・・」
と、両腕で頭を抱え、天井を見上げるチト。
「当たり前だろ? よくよく考えてみれば、ニッキが事故に遭ったのは、元を質せばお前の所為とも云える。・・大丈夫だ、心配するな。ニッキの治療費を払っても、お前のボロ車くらい、2~3台買える程、ふんだくってやるから。」
俺がそう言っても、チトは、頭を抱えたままで椅子に座り込んで動かなくなっていた。
次の日から、おれは、金貸しの家の周りを行ったり来たりして、その周辺の様子を調べた。横丁に在る小さな店で、
「おばさん、俺、あの家から金を融通して欲しくて来たんだけど・・」
と、煙草を買ったついでを装い言葉をかけると、
「ああ、そうかい。・・だが、出来る事なら、他で借りた方が好いよ。なにせ、あそこから一度借りたが最後、元金はおろか、利息さえ滞る事になるから・・」
「ほんとか? そんなに因業な商売をしてるのか・・」
「ああ、止した方が好い。借金などしないで、真面目に働いて少しずつ貯める様にすれば好いじゃないか。」
「・・そうだな。ありがとう・・」
「ああ、好いって事さ。あんた、元気そうだから、一生懸命働けば少々の金くらいすぐに貯まるさ。」
そんな具合に、3~4軒も聞いて廻れば、その家の評判はすぐにわかった。誰一人として、その家族を良く言う者は居なかったのだ。
事故の日から、2週間ほど過ぎた。
俺は、いよいよ金貸しの放蕩息子から治療費を貰う為に動き始めることにして、チトを呼び出した。彼にも手伝って貰わねば、俺の気が収まらない。俺が、
「来ないかと思ったが、さすがは、俺の友達だな。」
と、チトにいうと、彼は、
「来なけりゃ、後で何と言われるか分からないから・・」
と、渋面を隠そうともしないで応えた。その彼の態度に一言注意を与えようかとも考えたが、俺は、思い直して、
「立派な考えだ。・・あ、こいつ、俺の友人。チェリーっていう名だ。」
と、俺の後ろに突っ立っている友人をチトに紹介した。
「チェリー・・? 女みたいな名前だな。」
と、チトは、言った。
「あら、お兄さん、私は、この名前が気に入ってるのよ。サンバンが、名付けてくれた私の新しい名前なの。」
と、挨拶代わりに応えるチェリー。彼、いや彼女は(・・どちらの代名詞を使おうか・・)、
つまり、俺が紹介した友人は、身体の作りは男だが、心の中では、自分を女だと信じ切っている、所謂、性同一性障害を持った奴。
彼を見れば、神も時には悪戯な事をなされると思う。
その身長は、180cmをゆうに越え、顔はと云えば、世にこれほどの不細工が有るものなのかという程、兎に角、色々な意味で凄い、の一語に尽きる。
薄暗い場所で、彼に遭遇したならば、10人中9人は、間違いなく逃げ出す。残る一人は、気を失うだろう。
「サンバンの・・・友達か・・。 ああ・・宜しくな・・・」