生きてきたという痕跡
「気にするな、確かめたいだけだ」と言うと、
皆川は不器用な笑みを浮かべた。
美香が、さらに何かを言おうとした時だった。皆川の容態が急変して会話ができる状態でなくなった。直ぐに医者を呼んで対応してもらったが、数時間後、帰らぬ人となった。 あっけない最期だった。
病室の外にいた皆川の弁護士という人間に亡くなったことを知らせた後、病院を出た。
外は冬の日差しが降り注いでいた。不思議なくらいに静かだった。振り返れば、まだ皆川が生きているような気がした。
車で美香をアパートに送る途中、「何を言おうとした?」と聞いた。
すると、「別に」とつまらなさそうに答えた。
もう一度、「何が言いたかった?」と聞いた。
「気になる?」
「別に。もう死んだ。どうでもいいことだが、『気にならない』と言ったら嘘になる」
「ずいぶんクールね」
「十七歳の小娘に、『クールね』と言われても嬉しくない」
「お母さんの手記に本当のお父さんのことが書いてあった」
「誰だ?」
「手帳に、『宮坂修の子供を産む』と書いてあった」
驚いた。なぜなら、宮坂修とは自分のことだったから。美香には偽名を使っていたので、宮坂修が自分だということを知らないはずだ。
「どうしたの? 汗が流れているよ」
「車の暖房が強すぎるせいだ。気にするな」
美香のアパートの前に着いた。車を停めた。
「お金に困っているなら、いつでも来い。金を預かっている」
「分かった」と言って降りた。
三日後の朝、ホテルに泊まっている自分に、美香が会いに来た。雨が激しく降る日である。
ホテルの近くの喫茶店で話をした。
「本当に私はあの人の娘なの?」
答えないでいると、
「あれから、いろんなことを考えた。本当の父親はひょっとしたら、オジサンかもしれないとか」
美香はふいに黙った。見ると、不思議な笑みを浮かべている。
この俺が父親? 美香はどこまで知っているというのか? まるで試すかのように見る。
「今さら、どうでもいいことだろ。皆川は、『お前を娘だ』と言って死んだ。そして、『金をやってくれ』とも言った。お前はその金を受け取ればいい。どう使おうと、俺には関係ない」と金が入った紙袋を渡した。
「これからも会うことはある?」と美香が聞いた。
長い歳月が過ぎ去ったのだ。今さらどうなるものでもないし、どうしょうとも思わなかった。
「ないさ。弁護士がお前に会いに行くかもしれないが、俺は会わない。仮にどこかですれ違っても、声はかけない」と言って席を立った。
皆川に嘘をついた。それが良かったのかどうか、いまだに分からない。だが、彼は生きてきた痕跡として美香を残したことに満足して死んだ。そう信じたい。
(終わり)
作品名:生きてきたという痕跡 作家名:楡井英夫