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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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切れない鋏 2.愛美の章 巻時計

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 愛美は反対だった。友人にそんな重い物を背負わせたくなかった。けれど小雪はすんなりと了承して、もう三年になる。武は満足そうだった。愛美は今でも納得していない。
 もしも空から慎一郎が見ていたら、どうして小雪に押しつけるんだよ、兄貴――そう言うに決まってる、と思っていた。

 愛美は五号室に入った。楽譜が山積みにされたピアノの前に座って、譜面台の黒い部分にうつる自分を見ながらため息をついた。追悼セッションの曲を練習するつもりが、全く気持ちが乗ってこない。

 こんなのは所詮、身内の自己満足だ。五年もたてば環境も変わるし、友人関係も変わる。
 武が『ハウ・ハイ・ザ・ムーン』にこだわっているのは知っているが、そんなものを吹いたって慎一郎が月にいるわけじゃない。焼かれて骨になったのをこの目で見たのに、男のセンチメンタルなんて本当に馬鹿ばかしい――

 そこまで考えて、手をぎゅっと握った。武の気持ちはわかっている、両親の悲しみも痛いほど知ってる。
 でも今日くらい忘れて、私の誕生日を祝ってくれたっていいじゃない――

 アップライトピアノの黒い側面に映る自分の目じりは、武にも慎一郎にも似ていなかった。



 小雪を連れて自宅に戻ったのは、午後八時を過ぎていた。花柄のスリッパをはいた母親に出迎えられ、小雪は恥ずかしそうに頭を下げた。

「なーに? まだうちに慣れないの?」
「なんか……前より乙女になってない?」

 エプロンをつけて前を歩く母に聞こえないように、小雪は小声で言った。廊下をぐるりと見上げたあと、玄関にふりかえる。
 靴箱の上には母がデコパージュした石鹸が並べられ、壁にはパッチワークの大作がつられている。以前はワイヤープランツを置く程度だった廊下には、様々な大きさのドライフラワーが飾られていた。

「タケ兄が家を出たのをいいことに、お母さんが模様替えしまくってるの。お父さんは寝に帰るだけだし、私と二人だからねー」

 そう言ってダイニングキッチンに入ると、食事のいい香りが漂っていた。手作りのデコレーションケーキを始め、愛美の好物が並んでいる。

「小雪ちゃんはオレンジジュースかしら。あっでも、もうお酒も飲めるものね。そこ座ってね。お皿はもう少し大きい方がいいかしら……」

 小雪が返事をする間もなく、母はあわただしく動き回っている。控えめのカントリー調だったダイニングルームは、いつの間にか大小さまざまのレースで彩られている。小雪がそわそわした様子で部屋を見渡しているが、正直、愛美も落ち着かない。
 ここに父が帰ってきて食事をとるのだから、ため息しかでないことだろう。

 母はエプロンで手を拭きながら、階段にむかって声を上げた。

「シン、ごはん出来たから下りてきなさい」

 椅子に座ろうとしていた小雪の肩がピクリと動いた。母は何事もなかったようにフォークを並べながら、「シン、早くー」と言っている。
 愛美は小雪にそっと耳打ちした。

「別にシン兄の幽霊が二階に来てるとかじゃないからね。タケ兄が帰ってきてるのかも」

 階段を登りながら「タケ兄、いるのー? お母さんが呼んでるよー」と言ってみたが、返事がない。うしろから小雪がついてくる。六畳間の洋室を開けると、やはり武がいて、こちらを向いていた。

「いるなら返事してよ。ごはんできたって」

 紺色のニットカーディガンを着た武の視線が、愛美のうしろに流れた。

「来てたのか」
「あ……うん。今日、マナの誕生日だから」

 小雪が笑顔を作ったのがわかった。武は何も言わずにふたたび本棚を見上げる。
 兄二人が使っていたこの部屋は、慎一郎の死後も、武が家を出てからもほとんど変わっていない。二段ベッドくらい解体すればいいのにと思うが、母が物を動かさないように丁寧に掃除しているのを見ると、何も言えなくなってしまう。
 時おり帰ってくる武が、慎一郎のデスクの前に座っていたりすると、心臓がぎゅっと握りつぶされたように苦しくなる。母には悪いけれど、愛美も早くこの家を出たい、と思っていた。

「マナ、呼んでる」

 静かすぎて耳鳴りがしそうな部屋で、武がつぶやいた。愛美が「えっ、何?」と聞き返すと、ドアの外を指さして「母さんが呼んでるけど」と言った。
 やっぱり聞こえてたんじゃない、と腹を立てながら愛美は階段をかけ下りた。

 母に言われるまま食事の支度を手伝ったが、階上に残したままの兄と友人はなかなか降りてこなかった。



 部屋の明かりを消してろうそくを吹き消す儀式を終えると、小雪がトートバックから包み紙を取りだした。

「これは私。こっちはノブから」

 淡いブルーの包み紙をふたつ受け取った。大学近くの駅前にある、愛美のお気に入りの雑貨店のものだ。中には金色の鎖がついた小さな腕時計と、アンティーク風の模様がほどこされたスケジュール帳が入っていた。どちらも店によるたび、愛美が「可愛い」「欲しい」と連呼していたものだ。 

 燃え尽きたろうそくの匂いが鼻をかすめる。甘いケーキの香りが際立って、胸の内側からじわじわと熱くなってくる。

「お誕生日おめでとう、マナ」

 慎一郎が座っていたはずの椅子で小雪が笑っている。子供の頃は、家族みんなが誕生日を祝ってくれた。仕事に忙しいはずの父も着席して、プレゼントを渡してくれた。自分の誕生日を祝ってくれるのはもう母しかいない――そんなひねた考えはいつから持つようになったのだろう考えていると、目じりに涙がたまっていった。

「ありがとう、小雪。それからいないけど、ノブ」

 二人の名前を口にすると、よけいに視界がにじんできた。小雪が笑った。

「ノブってば、プレゼントまで渡しそこねたら、マナが二度とバンドを組んでくれないかもしれない、だから頼むって私をあの店まで引きずっていったのよ」

 思い出し笑いをしている小雪の隣に、あわてふためく信洋の姿が見える。彼のビー玉のように大きくて黒い瞳は、いつも小雪を探している。
 信洋が選んで手にとったはずのスケジュール帳をなでると、胸に小さなとげが刺さったような心地がした。

「お兄ちゃんはないの」
「何がだ」
「今の流れでわかるでしょ。プレゼントに決まってるじゃない」

 武はニットカーディガンのポケットを探ると、チケットを二枚、テーブルの上に置いた。

「綿谷さんにもらった。男でも連れて行って来い」
「私に付き合ってる人いないの、知ってるでしょ!」
「そりゃあ、そんなお子様じゃなあ」

 武が全身を舐めるようにしてみたので、愛美は舌を突き出した。

「三枚あれば小雪とノブといけるのにー。もう一枚ちょうだい」
「無茶言うなよ。ユキコ、適当に男を見つくろってやれ」

 話をふられた小雪はサラダを取り分けている真っ最中だった。母の指示を仰いで、慣れた手つきでトングをつかんでいる。

「マナの好きな人じゃないと意味ないでしょ」
「おまえのそういうしゃべり方、腹立つくらい紗弥にそっくりだな」

 武はわざとらしくため息をつくと、缶ビールのプルトップを引いて言った。

「まずはその少女趣味な服をどうにかしないと、男もよってこないだろ」