切れない鋏 2.愛美の章 巻時計
2.愛美の章 巻時計
冬休み明け、最初の授業は西洋史という選択科目だった。発達心理学を専攻している愛美には全く関係ない科目だったが、単位は取らなければならない。
定年なんてとっくに過ぎている老人が講義をするこの授業は、とにかく退屈で眠くて、ピアノの練習に疲れた体を休めるにはもってこいだった。
試験まであと二回に迫ったこの日は、生徒の数が十倍以上に増えていた。
愛美も第一回の講義から数回、出たきりだ。丁寧にノートを取っている小雪のおかげで、レポートは十分乗り切れそうだった。
いくつものバンドをかけもちしている愛美は、部活の決まった練習時間と自宅練習では弾き足りず、たびたび授業を抜け出しては部室にこもっている。
もうすぐ始まる就職活動に周囲は浮き立っているが、そんなことより目の前に迫っている試験を通過しなければ卒業もできないのに、と愛美は冷めた目で見ていた。
就職なんてその気になればいつだってできる。万が一、受けたところが全部不採用だったら、父の会社に雇ってもらえばいいのだ、と楽観的だった。
授業が終わって建物の外に出ると、冷たい山おろしが愛美の頬にふきつけた。出入り口のところで身を縮めていると、小雪はさっさと前を歩き始めた。
「ねえねえ、今日うちによってかない?」
あわてて腕を小雪のダッフルコートにからませる。小柄で細い体をしているのに、小雪の背中はいつもしゃっきりとしていて、腕を引いたくらいでは揺るがない。
愛美はのぞきこむようにして言った。
「お母さんがケーキを焼いて待っててくれるんだって。練習に行くなら、七時くらいに大学を出てもいいし」
「しまった。今日、誕生日だっけ。プレゼント用意してないや」
小雪が早口にそう言った。愛美はからませていた腕を抜いて言った。
「そんなのいいよー。小雪を連れてくるって言ったらお母さんもはりきってたからさあ。今日はバイト休みなんでしょ? そうだ、ノブも誘おっかなー」
愛美は軽くスキップをするような足取りで先を歩き始めたが、小雪がついてこない。ピンクのマフラーをひるがえしてふりむくと、苦い顔つきをしていた。
誕生日パーティに誘っているのに、何故そんな顔をされなければいけないのか、愛美には理解できなかった。
三人兄弟の末っ子でお姫様のように育った愛美は、自分が計画したことにはほとんどの人がついてくると信じているし、実現させる力もあると自負している。
信洋が小雪に片思いしていると知った時、二人の仲を取り持ったのも愛美だった。
女子高時代から小雪は人気があって、他校の男子からよく交際を申し込まれていた。亡き兄の慎一郎がこっそりと想いをよせていたことも、なんとなく気づいていた。
兄の死後、小雪から快活さが失われた気がして、愛美はあの手この手をつくした。年子の兄を失った自分が悲しむのは当然だけれど、そんなことに親友を巻きこみたくなかった。
その作戦のうちのひとつが、信洋と付き合うことだった。大海原のように広い心を持つ彼ならきっと小雪を癒してくれると期待したのに、男子校出身の信洋はしどろもどろしているばかりで、全く頼りにならなかった。
狭いキャンパスにひしめき合う学生たちの向こうに、十号棟にむかって走っていく信洋の姿が見えた。
ひざ丈のニットワンピースを揺らしながら、愛美はかけよっていく。
「ねえ、今日私の誕生日パーティをするの。小雪もくるし、ノブも来るよね?」
とびきりの笑顔を作って言ったのに、信洋は両手をあわせて謝り始めた。
「ほんとごめん、今日はバイトがあるし、提出期限がせまってるレポートもあるんだ」
「一日くらい休んだっていいでしょ。レポートもなんとかなるって」
信洋が苦笑いをしながら視線をそらす。あとから来る小雪に助け船を出してもらおうとしているのがわかって、愛美は信洋の前に立ちふさがった。
信洋の足が落ち着きなく動いている。愛美は彼のスポーツバックを握って離さなかった。
「大丈夫だってばー。私の誕生日とバイトとどっちが大事なの?」
うしろからきた小雪が割って入ると、信洋の顔がぱっと明るくなった。
「ノブはバイトしなきゃ大学にも出てこられないんだから、無理強いしないの」
「えーどういう意味?」
「バイト代で定期券を買ってるってこと」
「そんなの親に出してもらえばいいじゃない」
さらりと言うと、小雪はいつものようにため息をついた。
「行っといでよ。授業、遅れたらまずいんでしょ?」
そう言って信洋を見ると、すっぽんのようにかぶりついていた愛美の手をもぎとった。
信洋があわてて立ち去っていく。行くならさっさと行けばいいのに、何度もふり返っては手を合わせて謝るポーズをしている。
二限目の始業チャイムが鳴り、学生たちは方々に散っていく。悠長に学生の動きを眺めて信洋の文句を言っていると、小雪は携帯電話を取りだして言った。
「やっば。先生もう来てるみたい。いつも遅れてくる人なのに。じゃあね、マナ」
愛美の腕をふり払うと、小雪は急な坂道をかけおりて行った。
みぞれまじりの雪が降り始める。そんなにあわてたら転んじゃうよ、と小雪の去っていった方を見ながら思った。
五年前、大雪が降ったあの日――雪道でスリップした大型トラックにまきこまれて、兄の慎一郎は命を落とした。遅刻なんて気にせずに、近道になるあの坂を通らずに登校していれば死なずにすんだかもしれない――
あの日以来、雪の日は急がないようにしている。
ゆるく巻かれた髪をなでながら、十号棟の地下にある音楽練習場の方に歩いていった。
正門のすぐ脇になだらかなスロープがあり、下りていくと資材置き場に入る。
大きく開いた出入り口付近には背の高い灰皿があり、部員のひとりが雪を頬に受けながらうまそうに煙草を吸っていた。
奥には車が数台止められるほどの広い空間がある。板張りになった一段高い床の上に、学祭などのイベントのときに使われる看板や木材が山積みになっている。
部外者から見ればただの倉庫にしか見えないが、この先に音楽練習室がいくつも連なっている。
一号室から四号室は六畳ほどの広さで、主に個人練習とパート練習に使われている。
薄暗い廊下をはさんで扉がある五号室は、ジャズ研究会が根城にしている部屋だ。
ドラムセットや数々のアンプを始め、ホーンセクションの楽器類も全てこの部屋に置かれている。十二畳以上の広さはあるようだが、部屋中にパイプ椅子やら広げたままの楽器ケースが転がっているので、歩くこともままならない。
愛美はいつもピアノに近い奥の扉から出入りしている。
廊下の奥から小さなギターの音が聞こえ、閉じた防音扉の向こうからテナーサックスの音色が漏れ出している。
オリエンテのベースは廊下の一番奥に寝かせてある。慎一郎のベースを小雪に使わせたいと言いだしたのは長兄の武だった。部室にある状態の悪いベースじゃ上手くなれない、慎一郎のベースも放っておいたら痛んでしまう、だったら貸してやればいい、と何度も両親に話していた。
冬休み明け、最初の授業は西洋史という選択科目だった。発達心理学を専攻している愛美には全く関係ない科目だったが、単位は取らなければならない。
定年なんてとっくに過ぎている老人が講義をするこの授業は、とにかく退屈で眠くて、ピアノの練習に疲れた体を休めるにはもってこいだった。
試験まであと二回に迫ったこの日は、生徒の数が十倍以上に増えていた。
愛美も第一回の講義から数回、出たきりだ。丁寧にノートを取っている小雪のおかげで、レポートは十分乗り切れそうだった。
いくつものバンドをかけもちしている愛美は、部活の決まった練習時間と自宅練習では弾き足りず、たびたび授業を抜け出しては部室にこもっている。
もうすぐ始まる就職活動に周囲は浮き立っているが、そんなことより目の前に迫っている試験を通過しなければ卒業もできないのに、と愛美は冷めた目で見ていた。
就職なんてその気になればいつだってできる。万が一、受けたところが全部不採用だったら、父の会社に雇ってもらえばいいのだ、と楽観的だった。
授業が終わって建物の外に出ると、冷たい山おろしが愛美の頬にふきつけた。出入り口のところで身を縮めていると、小雪はさっさと前を歩き始めた。
「ねえねえ、今日うちによってかない?」
あわてて腕を小雪のダッフルコートにからませる。小柄で細い体をしているのに、小雪の背中はいつもしゃっきりとしていて、腕を引いたくらいでは揺るがない。
愛美はのぞきこむようにして言った。
「お母さんがケーキを焼いて待っててくれるんだって。練習に行くなら、七時くらいに大学を出てもいいし」
「しまった。今日、誕生日だっけ。プレゼント用意してないや」
小雪が早口にそう言った。愛美はからませていた腕を抜いて言った。
「そんなのいいよー。小雪を連れてくるって言ったらお母さんもはりきってたからさあ。今日はバイト休みなんでしょ? そうだ、ノブも誘おっかなー」
愛美は軽くスキップをするような足取りで先を歩き始めたが、小雪がついてこない。ピンクのマフラーをひるがえしてふりむくと、苦い顔つきをしていた。
誕生日パーティに誘っているのに、何故そんな顔をされなければいけないのか、愛美には理解できなかった。
三人兄弟の末っ子でお姫様のように育った愛美は、自分が計画したことにはほとんどの人がついてくると信じているし、実現させる力もあると自負している。
信洋が小雪に片思いしていると知った時、二人の仲を取り持ったのも愛美だった。
女子高時代から小雪は人気があって、他校の男子からよく交際を申し込まれていた。亡き兄の慎一郎がこっそりと想いをよせていたことも、なんとなく気づいていた。
兄の死後、小雪から快活さが失われた気がして、愛美はあの手この手をつくした。年子の兄を失った自分が悲しむのは当然だけれど、そんなことに親友を巻きこみたくなかった。
その作戦のうちのひとつが、信洋と付き合うことだった。大海原のように広い心を持つ彼ならきっと小雪を癒してくれると期待したのに、男子校出身の信洋はしどろもどろしているばかりで、全く頼りにならなかった。
狭いキャンパスにひしめき合う学生たちの向こうに、十号棟にむかって走っていく信洋の姿が見えた。
ひざ丈のニットワンピースを揺らしながら、愛美はかけよっていく。
「ねえ、今日私の誕生日パーティをするの。小雪もくるし、ノブも来るよね?」
とびきりの笑顔を作って言ったのに、信洋は両手をあわせて謝り始めた。
「ほんとごめん、今日はバイトがあるし、提出期限がせまってるレポートもあるんだ」
「一日くらい休んだっていいでしょ。レポートもなんとかなるって」
信洋が苦笑いをしながら視線をそらす。あとから来る小雪に助け船を出してもらおうとしているのがわかって、愛美は信洋の前に立ちふさがった。
信洋の足が落ち着きなく動いている。愛美は彼のスポーツバックを握って離さなかった。
「大丈夫だってばー。私の誕生日とバイトとどっちが大事なの?」
うしろからきた小雪が割って入ると、信洋の顔がぱっと明るくなった。
「ノブはバイトしなきゃ大学にも出てこられないんだから、無理強いしないの」
「えーどういう意味?」
「バイト代で定期券を買ってるってこと」
「そんなの親に出してもらえばいいじゃない」
さらりと言うと、小雪はいつものようにため息をついた。
「行っといでよ。授業、遅れたらまずいんでしょ?」
そう言って信洋を見ると、すっぽんのようにかぶりついていた愛美の手をもぎとった。
信洋があわてて立ち去っていく。行くならさっさと行けばいいのに、何度もふり返っては手を合わせて謝るポーズをしている。
二限目の始業チャイムが鳴り、学生たちは方々に散っていく。悠長に学生の動きを眺めて信洋の文句を言っていると、小雪は携帯電話を取りだして言った。
「やっば。先生もう来てるみたい。いつも遅れてくる人なのに。じゃあね、マナ」
愛美の腕をふり払うと、小雪は急な坂道をかけおりて行った。
みぞれまじりの雪が降り始める。そんなにあわてたら転んじゃうよ、と小雪の去っていった方を見ながら思った。
五年前、大雪が降ったあの日――雪道でスリップした大型トラックにまきこまれて、兄の慎一郎は命を落とした。遅刻なんて気にせずに、近道になるあの坂を通らずに登校していれば死なずにすんだかもしれない――
あの日以来、雪の日は急がないようにしている。
ゆるく巻かれた髪をなでながら、十号棟の地下にある音楽練習場の方に歩いていった。
正門のすぐ脇になだらかなスロープがあり、下りていくと資材置き場に入る。
大きく開いた出入り口付近には背の高い灰皿があり、部員のひとりが雪を頬に受けながらうまそうに煙草を吸っていた。
奥には車が数台止められるほどの広い空間がある。板張りになった一段高い床の上に、学祭などのイベントのときに使われる看板や木材が山積みになっている。
部外者から見ればただの倉庫にしか見えないが、この先に音楽練習室がいくつも連なっている。
一号室から四号室は六畳ほどの広さで、主に個人練習とパート練習に使われている。
薄暗い廊下をはさんで扉がある五号室は、ジャズ研究会が根城にしている部屋だ。
ドラムセットや数々のアンプを始め、ホーンセクションの楽器類も全てこの部屋に置かれている。十二畳以上の広さはあるようだが、部屋中にパイプ椅子やら広げたままの楽器ケースが転がっているので、歩くこともままならない。
愛美はいつもピアノに近い奥の扉から出入りしている。
廊下の奥から小さなギターの音が聞こえ、閉じた防音扉の向こうからテナーサックスの音色が漏れ出している。
オリエンテのベースは廊下の一番奥に寝かせてある。慎一郎のベースを小雪に使わせたいと言いだしたのは長兄の武だった。部室にある状態の悪いベースじゃ上手くなれない、慎一郎のベースも放っておいたら痛んでしまう、だったら貸してやればいい、と何度も両親に話していた。
作品名:切れない鋏 2.愛美の章 巻時計 作家名:わたなべめぐみ