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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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切れない鋏 2.愛美の章 巻時計

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 愛美は自分の服を見下ろした。レースの付け襟に大きめのドットがついたニットワンピース。丈は膝より少し上で、黒い8デニンスのタイツをあわせている。こんな恰好、大学の構内には掃いて捨てるほどいる。

 どんなに着飾っても平凡な顔立ちの自分より、陶器のように白い素肌をもつ小雪の方がよっぽど目立つ。
 小雪本人にはあまり自覚がなく、ニット帽にダッフルコートをあわせたり、ロングスカートにスリッポンをはいたりといつも野暮ったい姿だが、スカートの裾からのぞく真っ白のふくらはぎを見つけるたび、女の愛美でもときめいてしまう。
 それなのに性格はさっぱりと男らしいところもあって、全くずるいと思う。

 愛美はサラダの上に唐揚げを乱暴に盛りつけて、武に突き出した。

「ほっといてよ。お兄ちゃんなんか年中、黒か紺の地味な恰好してるくせに」
「俺は顔が派手だからこれくらいでちょうどいいの」
「はいはい。スマートで爽やかなシン兄とは全然似てないものね」

 武は返答しなかった。悟りきったような顔で愛美を見つめてくる。妙な圧力を感じて居心地が悪くなったところへ、母が大きなラザニア皿を持ってきた。

「ケンカはもういいからお料理食べちゃって。さめちゃうわよ」

 目の前に湯気が立ち上り、その向こう側に武の姿がかすんでいく。いつもなら食欲を刺激する大好物のラザニアが、なんだか重苦しく愛美の前に鎮座していた。 

「お兄ちゃん、上で何してたの?」

 武は唐揚げを口に突っ込んだあと、フォークを置いてめんどくさそうに言った。

「譜面を探してたんだよ」
「何の?」
「何って、ハウハイだけど」
「そんなのどこにでもあるじゃない」
「俺のじゃない。シンが作ったベースのソロ譜が欲しいんだ」
「そんなもの今更どうするの」
「こいつに弾かせる」

 そう言って、小雪を指さした。途端に彼女の顔に色がさした。愛美が様子をうかがうような顔をすると、小雪は小さくうなずいた。先ほど二人がなかなか二階から降りてこなかったのは、この交渉をしていたからか、と思った。

「私も追悼セッションに出させてもらうことになったの。それでハウハイのベースソロなんて聞いたことがないって言ったら、シンのがあるからって」

 年子の兄のことを、小雪はそう呼ぶ。誕生日が二ヶ月しか変わらない彼らは、同級生のように仲がよかった。慎一郎と小雪が付き合っていずれ結婚すれば、小雪と姉妹になれるのに、と楽しい妄想をひとり膨らませていた時期もあったくらいだ。

「まだそんな話してるの? 小雪は出さなくていいって、この前も言ったじゃない」

 愛美は語気を強めて言ったが、武はどこ吹く風という様子でビールを飲んでいる。

「小雪にシン兄のハウハイなんて弾かせてどうするのよ。そんなのタケ兄の自己満足でしょ。だいたいあのベースだって、小雪に押しつけないでって言ったじゃない。私の友達をシン兄の身代わりになんかしないでよ」

 となりで小雪が戸惑っている気配を感じたが、言い出したらもう止まらなかった。
 武はビールの缶を握りつぶすと、すっと立ち上がって言った。

「別に俺のためじゃない」

 抑揚の少ない低い声だった。武が感情を内に押し殺そうとするとき、そういう声を出すことを愛美は知っていた。しかし高ぶった自分の感情を押さえられなかった。

「じゃあ誰のためだって言うのよ」
「親父に決まってるだろ」

 くっきりとした二重まぶたの瞳で愛美を見つめると、ダイニングルームを出ていった。
 足音は玄関へと続いていき、そのまま家を出たようだった。

 母が飲みこむようにため息をついたのがわかった。小雪にうながされて浮いていた腰を下ろすと、目の前にきれいに盛りつけられた小皿があった。

「せっかくのお誕生日なんだから、めいっぱい食べちゃおうよ」

 あんな風に言ってしまったのに、小雪はいつものように笑っていた。後悔があとから押しよせてきて愛美が泣き出しそうな顔をしても、小雪の感情のさざ波は読み取れなかった。

 小雪は、慎一郎の話をまだ信洋にはしていないようだった。
 兄の事故死によって小雪が受けた傷はどれくらいのものだったのか、五年経つ今、少しでも癒されているのか――愛美には未だにわからなかった。

                  ***

 翌日の昼頃、愛美は武が住んでいるアパートの前に立っていた。前日の夜、ケンカ別れした兄は実家に携帯電話を忘れていった。取りにこさせればいいのに、そもそも連絡がとれないし、手元にないと仕事も不便なことだろうと言って、母が愛美を使いに出したのだ。

 お母さんが行けばいいのに、と一応反抗してみたが、お母さんは町内会の集まりがあって忙しいの、と一蹴されてしまった。
 専業主婦の母がどれくらい多忙なのかは不明だったが、ひとりであの家にこもっているよりは、町内会のことで忙しくしているほうがいい。

 前日のみぞれが嘘のように、よく晴れた暖かい日だった。平日のせいか、単身者向けの築浅のアパートには人気がない。

 武は、父が経営するアパレル会社に勤めている。数年おきに店舗をうつりながら営業にも出ているらしい。家族には無愛想な顔しか見せないが、整った面立ちも手伝って、時おり垣間見せる笑顔が年上女性にはウケがいいそうだ。

 一度だけ偶然、店先に立つ武の姿を見たことがある。普段のぶっきらぼうな話し方が嘘のように、饒舌な営業トークを繰り出していた。いかにもガードが高そうな三十前後の女性が、言われるままに次々と服を試着しているようだった。
 高々とトランペットを吹き鳴らしている兄とは、別人としか思えなかった。

 一人暮らしを始めてから武はすっかり痩せてしまって、全身にまとっていた鋼のようなオーラも消失した。変わってしまった、というよりは、武が意図して変わろうとしていると愛美は感じていた。

 真新しいインターフォンを押した。仕事が休みで家にいるはずだが、応答がない。
 しばらく待ってから、合い鍵を取りだした。出かけに母から預かったものだ。本当はこんなもの使いたくないが、ポストに携帯電話を落すのにもためらいがある。

 もう一度、部屋番号を確認したあと、「入るよー」と声をあげて鍵をさしこんだ。
 鍵をひねった瞬間、ドアノブが縦になって玄関扉が開いた。

「……なんでおまえが鍵をもってるんだ」

 寝起きだったのか、髪が乱れている。皺のついたカットソーからは、寝汗のにおいがたちこめていた。

「いるんなら出てよ。携帯電話、お母さんに持っていけって言われたの」

 愛美が携帯電話をさし出すと、武は眠そうな顔で脇腹をかいてから、無言で受け取った。
 それから手のひらをさしだす。鍵を渡せということらしい。
 愛美が頬を膨らませて鍵を乗せると、武は扉を閉めようとした。

「せっかく持ってきたんだから、ありがとうぐらい言ってよね」
「早く帰れよ」

 妹を追い返そうとしている兄の様子にピンときて、愛美は沓脱を見た。予想通り女物の靴がある――それは見たことのあるフリンジ付きのショートブーツだった。

「……誰か来てるの?」
「わかってんならさっさと帰れ」