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幻燈館殺人事件 中篇

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* 12 *



 花明は、たった今書き終えたばかりの原稿を一文字も読み返すことなく机の端に寄せると、訊いてもいないことを喋り続ける来訪者に向かって一言、お茶を出しますよ、と言った。
 応接セットの長椅子には、まるで自分の部屋であるかのようなくつろぎをみせる蜂須賀がいる。
「丁度のどが渇いてきたところだ」
「訊きもしないことを喋っているからですよ」
「訊いてこないから喋っているんだ」
「もう少しで終わるから待っていてくださいと言ったじゃないですか」
「待つのはいいが、待たされるのは嫌いでね」
 二人の他愛のない掛け合いは、湯呑み注いだお茶が程よく冷めるまで続いた。

 九条怜司が拘留されてから、十の日を数えた。
 九条怜司は、森雪乃の殺害、及び、朝妻忠夫の殺害を認めはしたものの、それ以外は一切を黙秘している。少々手荒い取調べになることもあるようだ。
 蜂須賀が一人で勝手に喋った話をまとめると、九条怜司は元気だ、ということだ。
 しかし蜂須賀は、そんなことを伝えるために花明の研究室を訪れたわけではない。花明もそれは承知している。
 ふとした拍子に会話が途切れた。
 不意に訪れた一瞬の空白は、二人に腹を決める充分な時間を与えた。
「遅くなってしまったこと、詫びる」
 口火を切った蜂須賀の第一声は、謝罪の言葉であった。
 いつも通り、ひと目で上物と分かる背広に袖を通し、しかし決してこれ見よがしでも下品でもなく。ただ十日前と違うのは、声や仕草から僅かに漏れ出す疲弊憔悴の匂い。
 そんな匂いを感じ取ってしまったからには、幾ら十日前から一切連絡もなく、十日も過ぎた今日になって突然現れたのだとしても、感情に任せた行動は慎まなければならない。
 顔を見るまでは罵ってやらねば気が済まないと思っていたのに、だ。
 いつだったか常盤志津が語っていた、“男を待つ女の気持ち”とはこういうものなのだろうか、と内心自嘲する。
 蜂須賀は、十日間昼夜を問わず人探しに奔走していた。
 腕に赤く膨れ上がった傷痕を持つ女、というたった一つ手掛かりを頼りに、帝都の内外を問わずに駆けずり回った。
 そうして探している間に実感する。
 蜂須賀とて警察官。人捜しが容易ではないことなど十二分に知っている。
 だからそうではない。
 蜂須賀が実感したのは、“曖昧さ”だ。
 蜂須賀自身、分かっていたはずなのに、と何度も歯噛みした。
 林葉子の遺体を見た花明は、別人だと断言していた。
 花明自身が口にした腕の傷痕があったにも拘らず、別人だと断言した。
 死体検案書にも記載されていた腕の傷痕は、本人を特定する充分な物証であった。
 否。それはあまりにも充分過ぎたのだ。
 充分過ぎるが故にその特徴に頼り、特徴的過ぎるが故に強い盲信を含む。
 伝聞による劣化が更なる加速を与え、知人の死という非日常が冷静を奪う。
 ある日、突然に、腕に傷痕がある女性を知らないか、と問われ、次に、その人が死んだ、と突き付けられる。
 腕に傷痕がある女性を知っているならば、大抵の人間はその人を思い浮かべるだろう。
 事実、蜂須賀は幾人もの腕に傷痕を持つ女性と会ってきたのだから。

「捕まえることはできなかった」
 蜂須賀は言った。
 やはり表情には乏しく、目的を達成できなかったと告白するような口調ではないが、普段の物言いとは確かに違うものがあった。
 花明はまだそれに気付けるほど彼のことを知らない。
 もう少しだけ、長い時間が必要だ。
「そうですか」
 花明は平静を装う。
 辛いのは二人とも同じだ。とはいえ、花明には蜂須賀が自分の無力感に苛まれる姿などはまだまだ想像できない。
 そんなことがほんの少しだけ脳裏を過ぎったおかげで、平静を装うことにそれほどの労を費やさずに済んだ。
 久瀬蓮司が自首してしまった以上、捜査が打ち切られることは分かっていた。花明にとっても蜂須賀にとっても、解決ではなく打ち切りだ。
 久瀬蓮司、九条怜司は犯人ではない。その事実を知るのは、ここにいる二人だけ。
 九条怜司の事実は違う。九条怜司が持つ事実は“自分こそが犯人”だ。
 確かに事実でもある。
 久瀬蓮司は間違いなく森雪乃を殺した。
 九条怜司は間違いなく一之瀬桜子を殺した。
 罪を償わなければならない。そうしなければ、彼は救われない。
 彼が、彼自身が、前へと進むために決断したことだとしても。
 花明はその事実を認めない。
 蜂須賀がそんな事実を許さない。

 二つの殺人は、たった一つの目的を達成するために行われた。
 その目的とは、森雪乃を殺すこと。
 この二つの殺人、この一つの事件の全貌を明かすために必要な言葉は、ただの一言だ。
 林葉子と森雪乃は、全くの別人である。ただそれだけだ。
 林葉子を森雪乃に見せ掛けるために、林葉子の腕には傷を付けておく。傷痕でなければならぬそれは、殺害の数ヶ月前に行われていた。
 数ヶ月前に林葉子が腕に包帯を巻いていた、店の常連客がそう証言している。
 数ヶ月前から計画されていた殺人であるということだ。
 林葉子が殺害された日のことだ。
 怜司が資材倉庫で目撃したのは、間違いなく朝妻忠夫が林葉子を刺す場面であった。
 あのとき、すでに林葉子は息絶えていた。
 つまり朝妻忠夫は、すでに死んでいる林葉子に対して罵声を浴びせ、何度も凶器を突き立てていたのだ。
 怜司が男の声しか聞いていないのは、そういう理由だ。
 朝妻忠夫には、手荒い仕事を請け負う部下もいた。見返りを用意した上で命令すれば、どんなことでも実行する者だ。
 それでも自らが実行者となったのは、自分の立場を危うくする可能性、つまり実行者に強請られる危険性を排除するためだ。
 実行者となった朝妻忠夫は、皮肉にも同じ理由で殺害されることになる。
 朝妻忠夫の役割は、林葉子を殺害することではない。
 彼の役割は、唯一無二の目的である“森雪乃を殺すこと”だった。
 即ちそれは、林葉子を森雪乃だと証言すること。
 そうして、森雪乃は死んだのだ、と社会でも警察でも働いていた店でもない、極々限られた、ほんの一握りの人間たちの耳へと届ける。
 そのうちの一人が九条怜司であり、そのうちの一人が花明栄助であった。
 林葉子の遺体を指して森雪乃だと証言したことで、朝妻忠夫はその役割を終えた。犯人の手で、首謀者の手で舞台から引き摺り下ろされた。
 この朝妻忠夫の退場も、当初から計画されていた。勿論、本人は知る由もない。
 朝妻忠夫が協力した理由は、林葉子にあった。
 警察が大好きな、分かりやすい動機。愛人関係の清算を巡る争い。
 現場から逃げた犯人・久瀬蓮司の目撃者となることで、自分は被疑者から外れる。単純であればこそ、大きな効果が見込める。
 久瀬蓮司と林葉子は同棲していた。林葉子と朝妻忠夫は愛人関係にあった。
 この二つが揃えばこそ、久瀬蓮司の犯行に説得力を持たせることができる。裏切りに対する制裁を行ったのだと信じ込ませることができる。
 あとは、久瀬蓮司を現場となる資材倉庫に向かわせるだけだ。
 そのための準備もぬかりない。
作品名:幻燈館殺人事件 中篇 作家名:村崎右近