幻燈館殺人事件 中篇
「確認することはできます」
「なんだ先生、彼女の裸を知っているのか?」
「冗談は止してください」
「本気だったんだが」
花明は、白旗を振る代わりに苦笑いを浮かべた。
「桜子さんは、腕に古い傷痕があるんです。確か、長さは人差し指ぐらいで、赤く膨れているんです。六年前も、その傷痕を本人である証明として使っていました」
「つまり先生は、この遺体には傷痕がないはずだと言いたいんだな?」
「その通りです」
「残念だが先生、その傷痕のことは死体検案書に記載されている。ま、直接その目で確認するといい」
蜂須賀は、遺体を挟んで花明と向かい合う位置へと移動し、間を置かずに遺体の腕を取り、赤く膨れ上がった傷痕を花明に示した。
「傷が……」
「先生が会ったのは六年前だと言っていたな。その六年の間に、別の誰かの顔と入れ替わってしまった、なんてことも充分に在り得る話だ。傷痕という証拠もある。一昨日まで一緒だった彼の供述を覆す説得力はない」
花明は言葉を失った。
不自然なことは多い。
違和感は拭えない。
しかし、証拠がなければ蜂須賀の警察官としての矜持を止めることはできない。
「彼を連行しなければならん。……残念だ」
蜂須賀は、無言を貫く怜司の前に立つ。
「自首扱いにするが、構わないかな?」
怜司は、構わない、とだけ答えた。
「花明、巻き込んですまなかった」
「怜司さん……どうして」
「桜子のいない世界に未練はない。それだけだ」
呟いた花明の拳は、硬く握り締められている。
「刑事さん。前にも言ったが、花明は何も知らないんだ。匿った罪は問わないで欲しい」
「花明? 誰だそれは?」
「恩に着る」
蜂須賀は怜司の肩に手を置き、部屋の外へと誘った。
「蜂須賀さん。貴方はこれでいいんですか? 貴方は凶悪犯を野放しにはできないと言いました。あれは嘘ですか」
「これでも警察官なんだ。自首してきた被疑者を蔑ろにすることはできない」
花明の悲痛な訴えも、蜂須賀には届かなかった。
否。蜂須賀はそれを受け止めることができなかったのだ。
*
日没を迎えた窓の外は、急速に色を失っていく。
花明はその様子をただ漫然と眺めていた。
万年筆を握った手は、先ほどから動く気配を見せていない。
急ぐ論文ではない。けれど、研究室に留まる何らかの理由を用意しておかなければ、すぐにでもインバネスを羽織って飛び出しそうになる。
そう思って向き合った原稿だったが、本人も予想した通りに微塵も進展していない。
花明は考えた。
なぜ怜司は、自分がやった、と言い出したのかを。
そして答えに行き着いてしまった。
もとより怜司は、犯人が分かれば警察に出頭するつもりだった。
だから、自分がやった、と言った。
つまり、怜司は林葉子を殺害した犯人が誰かに気付いたのだ。
あの場には、警察官である蜂須賀がいた。
もし怜司が犯人の名を口にすれば、蜂須賀がどういう行動をとっていたかなどは説明するまでもないだろう。
だから、犯人の名を告げることなく、自分がやった、とだけ言ったのだ。
ただそれだけのことだ。
花明は蜂須賀の最後の言葉が、本人の意思を尊重してやろう、という意味だったことに気付いたが、それは遅すぎる気付きであった。
花明は後悔している。深く。重く。
あのとき、これでいいのか、と問い掛ける相手は、蜂須賀ではなく怜司だったのだ、と。
花明は万年筆を握り締める。強く。固く。
春の足音近く、日没は日に日に遅くなりつつあるものの、傾き始めた太陽が地平線に消えるまでの時間では、胸に燻る蟠りを解消する方策は見つけられなかった。
唯一許されたのは、思考そのものを停止させることだ。
今日は、今夜は、そうして乗り切ろう。
だが明日は――花明の思考はそこで停止する。
そうすることで、今までに幾つもの“どうにもならないこと”を呑み込んできた。
「やはり納得できていないようだな」
突然の男の声に驚きつつも、花明は冷静に反応することができた。
というのも、声の主が会いたいと願っていた相手の一人――蜂須賀直哉だったからだ。
「警察官が不法侵入ですか。勝手に入って来られては困ります」
花明の声は、相手を非難しながらも明らかにその訪問を歓迎していた。
「ノックならしたぞ」
蜂須賀は悪びれることなくさらりと言ってのける。
「返事がないのに入ったことを言っているんですよ」
言いながら、一文字も進めることができなかった原稿を机の端に寄せて、少しだけ自嘲する花明。
「返事がなかったので失礼させてもらった。先生の身に何かあっては堪らないからな」
蜂須賀は、部屋の主である花明が勧めるより先に、来客用の長椅子に腰を下ろした。
「そういうことにしておきます」
どのようなご用件ですか、などという野暮なことは言わない。
花明と蜂須賀の目的は同じ。事件の解明と解決。そこへと至る道筋に、社交辞令や腹の探り合いなどの余計なものは何一つとして存在していない。
花明は、作業机を離れて蜂須賀の正面に移動する。
そして、腰を下ろすと同時に口を開いた。
「訊きたいことがあります」
「答えよう」
「第二の被害者の素性を教えてください」
第二の被害者。それは、林葉子殺害の現場から立ち去る怜司を目撃した人物。そして、怜司以外に被疑者と成り得る人物だ。
蜂須賀は一度だけ頷き、懐から取り出した手帳の一頁を花明に示した。
“朝妻忠夫”の四文字だけが大きく書かれている。
「朝妻忠夫。林葉子殺害の現場である倉庫の持ち主だ」
蜂須賀は、花明が欲しているであろう情報だけを補足する。
朝妻忠夫は、土木建築の会社を経営する社長であり、現場となった倉庫を含め、周辺にある工場の土地所有者でもある。既婚で、息子が一人と娘が二人。その他、蜂須賀が持っている情報は多岐細部にまで及ぶが、花明には必要ない。
そうと分かっている蜂須賀は、不要なことは口にしない。
「朝妻さん……でしたか」
花明は呟くように言った。
その花明の反応は、蜂須賀には意外だった。
「面識が?」
蜂須賀は短く問う。
「この棟を建てるときにお世話になった程度ですから、業者とその客、それだけの関係です。親交があったわけではありません」
「それにしては、悲しそうにしているが」
「そうですか?」
「無理はしなくていい。僅かとはいえ、関わりを持った人間が亡くなったのだ。一度に二人もとなれば、堪えもするだろう」
「訂正が二つあります。一つは、関わりがあったのは一人だけです。二つは、無理はしていません。僕は悲しいのではなくて、寂しいのです」
花明は深く息を吐き出す。
そして一言、聞いて頂けますか、と続けた。
作品名:幻燈館殺人事件 中篇 作家名:村崎右近