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幻燈館殺人事件 中篇

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* 10 *



 あとはよろしくお願いします、と言い残し、係の男は去っていった。
 花明は、顔面を硬直させている怜司の名を呼ぶ。
 名前を呼ばれても、怜司は微動だにしなかった。この場合は、できなかった、というのが正解だろう。
 目の前にある扉には、何も書かれていない。
 扉そのものは、簡素ではあるがしっかりとした造りで、装飾がないという点を除けば一級品だが、この部屋を訪れる者には扉を鑑賞するような心の余裕のある者はいない。
 係りの男が立ち去った廊下には、花明と怜司の二人だけが残された。蜂須賀はもうすでに扉の向こうだ。
 遠のく足音さえも聞こえない。名前を呼ぶ以外に言葉を発するには、そこはあまりにも静か過ぎる空間であった。
 怜司は二度目の呼び掛けに反応を見せ、花明の目を見て微笑んだ。
 何事かを言い掛けて口を開いたが、すぐさま口を噤み、結局何も言わぬままに扉の向こう側へと姿を消した。
 そして花明は一人になった。
 電灯が点いているものの、廊下全体が薄暗い。どこかの窓が開いているのか、時折、ひゅう、と風が右から左に吹き抜ける。
 花明は扉の向こうにいる怜司を想像した。
 守ることができなかった、と己を責めている姿が浮び、それが自身の希望のみを反映した身勝手な想像であると分かっておきながらも、ただ安堵した。
 自分が手に掛けた死体と対面したとき、殺人犯は一体どんな顔をするのか。
 花明には想像することもできないのだ。
 不意に扉が開かれ、怜司が姿を現した。怜司は無表情であった。。
 そのすぐ背後には蜂須賀の姿もあった。困惑していることが見て取れる。
 蜂須賀に入ってくるようにと促され、花明は恐る恐る足を踏み入れる。
 部屋の中央からやや奥側に一つの台があり、その上に薄手の毛布で包まれた遺体が置かれていた。
 花明はそのまま無言で進み、顔の部分の毛布を捲る。
 先ず黒い髪が見え、続いて額が視界に入る。当たり前だが血色が悪い。
 眉、目、鼻、唇、顎。
 そこまで捲り上げて、花明は違和を覚えた。目の前の林葉子は、記憶の中の一之瀬桜子とは重ならなかったのだ。
 そして花明は、状況を整理するために思考を巡らせ始めた。
 最初に浮かんだのは、一之瀬桜子の顔を忘れてしまっている可能性だった。
 花明が一之瀬桜子に会ったのは、実に六年も昔のことだ。自身に掛けられた疑いを晴らすために、柏原ゆきえと名乗っていた一之瀬桜子と行動を共にした。それは僅か半日足らずのことではあったが、六年という歳月が流れた今でも、鮮明に覚えている。
 桜子に比べて顔を合わせた時間が圧倒的に少ない怜司の顔でさえも、花明は覚えていたのだ。桜子の顔を忘れることはない。
 次に浮かんだのは、蜂須賀が怜司の相貌失認が事実かどうかを確かめるために仕組んだ可能性だった。もしそうであれば、死者に対する冒涜である。
 蜂須賀がそんなことをするとは到底思えない。相貌失認を検証するにしても、方法は他に幾らでもある上に、明らかに時機ではない。
 二つのどちらでもないとすれば、誰も意図していない手違いにより、別人の遺体と対面していることになる。
 花明は、自分の記憶違いである可能性を疑い、遺体の人相をもう一度確認したが、やはり記憶にある一之瀬桜子とは重ならなかった。
 別人としか思えない。それが花明の結論だ。
 そして、ある一つの疑問が浮かぶ。
 なぜ怜司は冷静でいられるのか。
 最愛の女性の遺体と対面したのだから、動揺したとしても仕方のないことだ。だが、怜司は相貌失認症だ。人相では人物を判断できず、声や仕草や服装に頼っている。
 ところが、目の前の遺体は文字通り物言わぬ骸。声を発することはなく、動くこともなく、衣類も身に着けていない。
 つまり、怜司には判断材料がないことになる。
 怜司は死別という現実を受け入れて嘆くか、現実を逃避して騒ぐか、二つのどちらかを選択することになる――はずだった。
 しかし、怜司の様子は無表情であり、無感情であった。そこに悲しみの感情は含まれていなかった。
 こういう悲しみ方や逃避もあるのかもしれない。
 花明はそう思いながら、背後の二人を振り返った。
 先ず怜司と目を合わせ、続いて蜂須賀に視線を送る。
 そうして、二人ともが自分の発言を待っていることを悟ると、一度目を閉じて、深く深く息を吐いた。
「この方は、どなたでしょうか?」
 ふむ、と唸った蜂須賀の隣で、怜司は相変わらずの無表情だ。
 数秒の沈黙を経て、蜂須賀が口を開く。
「林葉子、だ」
「間違いありませんか?」
 花明の問い掛けを耳にした蜂須賀は、一瞬眉を顰めたものの、次の瞬間にはいつもの余裕のある笑みを浮かべていた。
「間違いない」
「こちらの方、林葉子さんは、僕が知る一之瀬桜子さんとは別人です。この遺体の身元を調べてもらえれば、怜司さんとは無関係であることが分かるはずです。何らかの接点が見つかるかもしれませんが、少なくとも一緒に住んでいた女性ではないはずです」
「間違いないか?」
 蜂須賀は先ほど花明がやったように、ただ問い掛けた。
「間違いありません」
 花明がそう断言すると、蜂須賀は隣の怜司に向き直る。
「先生はこう仰っているが……さっきの発言を取り下げるなら今のうちだぞ」
 怜司の表情は硬く、花明とも目を合わせようとしない。
「さっきの発言、とは?」
 花明は、膠着による雰囲気の悪化を嫌い、話を進めるための一石を投じた。
 怜司と蜂須賀、どちらが答えてもいいよう、言葉を選んである。
 蜂須賀は、怜司が動かないのを確認してから口を開いた。
「彼女を殺害したのは自分だと言った」
「犯行の自白、ですか?」
 それが、昨日の花明の研究室で会った時点での言葉であれば、蜂須賀は何も言わず怜司を連行しただろう。だが、一日という時間が過ぎて、状況は大きく変わっている。
 蜂須賀は、すでに怜司が犯人だとは考えていない。
「自白だけで逮捕するような勇み足は、今のところ持ち合わせていない」
 この瞬間に、花明はそのこと――蜂須賀が怜司を犯人だとは考えていないことに気付いた。
 だがまだ安心はできない。花明は自分にそう言い聞かせて、気を引き締めた。
「蜂須賀さん。先ほどの“悪い報せ”を怜司さんに話しましたか?」
「話した」
 蜂須賀は、端的に答える。
「いつ?」
「この部屋で」
「それは、怜司さんが遺体と対面する前ですか?」
「いや、彼は遺体を丹念に観察したあとに、浮気相手の男について質問してきた」
 浮気相手の男、つまりは目撃者の男であり、花明が真犯人ではないかと疑っていた人物である。そして、第二の被害者でもある。
「観察? 仰々しい表現ですね」
「顔を見たあと、首筋を見て、左の脇を見て、そして右腕を見ていた。観察ではなく鑑別と言うべきだったかもな」
 花明は無意識に遺体へと視線を落としていた。
「何かを確認していたようだが、本人に訊いても教えてくれそうにない」
 蜂須賀がちらりと目線を送ったが、怜司は口を噤んだままだ。
「桜子さんを特定する何かがあるのだと思いますが、訊いたところで意味がありません」
「確かにな。彼女の裸を知らなければ、確認のしようがないってわけだ」
作品名:幻燈館殺人事件 中篇 作家名:村崎右近