幻燈館殺人事件 中篇
蜂須賀は花明の肩を叩いて頭を起こさせた。
顔を上げた花明の表情は、一つ胸の痞えが取れた、と如実に物語っていた。
怜司に後ろめたさを覚えていた花明にとっては、紛れもない朗報であったのだ。
「上に行きましょう。早く報せてあげないと」
軽い足取りで教室を後にした花明は、蜂須賀を置き去りにして階段を駆け上がった。
*
花明たち三人は、大学の敷地内を東へと向かって進んでいた。
花明の研究室がある民俗学の専用棟は、どちらかといえば敷地の西側にあるため、大学の西面にある正門から入るのが一番近い。その正門から研究室までの道程と同じだけの距離を南に向かって進むと、そこには法医学教室がある。
ではなぜ法医学教室がある南ではなく東へ向かっているかと言うと、それは至極単純な話で、林葉子の遺体が大学東部にある大学病院に運び込まれているためだ。
天頂に至っていない太陽の光は酷く脆弱で、乾燥した晩冬の風が吹く度に息を潜めてしまう。だがその風の冷たさは、三人にとって充分な口を噤む口実になった。
冷たく変わり果ててしまった最愛の女性と対面せんとする怜司の心境などは言うまでもなく、怜司の疑いを晴らす糸口を失ってしまった花明も、掛ける言葉を見つけられずにいるのだ。
花明が言葉を見つけられない原因は、蜂須賀にあった。
蜂須賀直哉。彼が持つ警察官としての矜持は、殺人犯を野放しにすることなど許しはしない。目の前にいるのが唯一無二の被疑者となれば、その身柄を確保することに対して一切の迷いを見せることはない。
その蜂須賀が未だに怜司を逮捕する素振りを見せていないのは、何らかの理由があるに違いない。花明はそう考えている。それには、僅かばかりの希望的観測も含まれているが、相応の根拠が、少なくとも花明自身が納得できるだけの根拠がある。
蜂須賀は、前日の昼間に花明の研究室を訪れたときには、林葉子の遺体が帝国大学の大学病院に運び込まれていることを知っていて当然だった。しかし、そのことを口にしたのは翌日になってからだ。
被疑者の一人が被害者に変わってしまったのは、その間の出来事だ。
昨日は敢えて言わなかったのだと考えれば、蜂須賀が研究室を去ってからの一日未満の間に発生したこの事象が、蜂須賀に話をさせた理由なのだろうと容易に推測できる。
そして、被害者と対面させることで何かを見極めようとしているのだ、という推測も苦しくはない。
花明を先頭にした三人の列が、大学東部にある大学病院に到着した。
といっても、その場所は正面入口ではなく裏口だ。本棟の裏側にあって、出入りする人の姿はなく、ひっそりとしている。ただの裏口ではなく、関係者専用の、それも限られた一部だけが使用するための入口であることは、誰の目にも明らかであった。
花明は、特有の空気感に思わず足を止める。
病院という空間が持つそれとは明らかに異なった雰囲気は、生命に対する畏れでも未知に対する恐怖でもなかった。ただ、向き合う覚悟だけを要求してきた。
花明は足を止めてしまったことに気恥ずかしさを感じたが、すぐ横で怜司が同じように足を止めていることに気付いて、ほんの少し安堵した。
直後、怜司の反対側に自分を抜き去る気配を感じ、花明は振り返る。
颯爽と進む背中は、蜂須賀のものであった。
蜂須賀だけは足を止めていなかったのだ。
蜂須賀は二人を差し置いて進み、入口の脇にある小窓を覗き込んだ。
それから、蜂須賀が手招きして呼ぶまでの間、二人は呆然と立ち竦んだままだった。
花明は、蜂須賀が警察の者であり、自分とは違う世界にいるのだということを再度認識するのだった。
作品名:幻燈館殺人事件 中篇 作家名:村崎右近