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幻燈館殺人事件 中篇

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* 9 *



 唐突に鳴り響いた鈴の音が、講義の終了時刻であることを告げる。
 花明は、もうそんな時間か、と呟いてから左手の教本を閉じた。
「以上のように、一つ一つ積み上げた事実にのみ基づいて結論を導き出す方法と、大胆な仮説を打ち立ててからそれを検証していく方法、二つの方法があるということですね」
 簡潔に話をまとめてから、講義の終了を宣言する。
 花明が行っていたのは課外授業である。講義という形を取っているものの、単位には関係ない。民俗学とはどういう学問なのかを解説し、興味を持ってもらうための施策として行われているのだが、今のところその効果は出ていない。
 思い思いに立ち上がった生徒たちは、次々に部屋を後にする。教壇にいる花明の元に質問に来る生徒などはいない。それは講義の質の問題ではなく、内容そのものに対して生徒が興味を示していないためだ。参加した生徒たちは、そのほとんどが時間潰しのために参加しているに過ぎないのだ。
 花明は、生徒たちの背中を見送りながら、右の耳朶(みみたぶ)の裏をひと撫でする。
 花明が耳朶の裏を撫でるのは、無意識の所為だ。学生時代から数え切れぬほど耳にしてきた音なのだが、この数年はやけに耳に付くようになっていた。
 口惜しいのだ、花明は。民俗学の魅力を伝えられないことが。伝える術を持っていない自分が。澤元の期待に応えられぬ自分が。
 手応えを感じられぬままに講義の終了時刻を迎え、その度に落胆し、いつしか落胆することにも慣れ、感覚が鈍化し、胸内で燻る悔恨にさえ気付けなくなってしまった。
 それでも講義の終了を告げる鈴の音が耳に付くのは、澤元の期待に応える、という目標を見失っていない証拠だ。
 端からは、若くして助教授に就任するなど順風満帆に見える。しかしその実、花明は霧の中で懸命に足掻いているのだ。
 生徒が退出し終えた室内に、ぱん、ぱん、と拍手(かしわで)を打ったような大きな音が起こる。
 音は等間隔で四回。賞賛と言うよりは慰労。けれど、それは決して侮蔑ではなく。
 室内には、生徒ではない者が二人だけ残っていた。そのうち一人は教壇にいる花明だ。
 花明は、教卓上に広がる教材の類を手早く集め、未だに座したまま動こうとしないもう一人へと視線を向けた。
 その人物の名は、蜂須賀直哉。
 生地も仕立ても一級品の背広。しっかりと糊の利いたシャツ。彼の様相を表すために必要な言葉は、たったの二つ。清潔と理知。
「捜査会議には出席されなかったのですか?」
「出席はしたさ。進展はないという報告ばかりだった。尤も、俺も同じ報告をしたクチなんだが」
 蜂須賀はそう言って自嘲した。しかし、胸の内では愉しんでいるようにも見える。
「目撃証言の信憑性についてはどうなりましたか?」
 花明が少し語調を強めて言うと、蜂須賀は素直に謝罪した。
「その件について、是非とも先生にご意見を頂戴したくてね。会議が終わってすぐに飛んできたのさ。そうしたら、拝聴したいと思っていた先生の講義が行われていたのでね」
「進展はなかったのでは?」
「捜査には、な。ところで、“彼”はどこに?」
「上です。一人で出歩くことがどれだけ危険なことか、十二分に理解していますよ」
「なら安心だ」
 そう言って、蜂須賀は口角を上げた。
「さて先生、いい報せと悪い報せがある。どちらから聞きたいかな?」
 蜂須賀のそれは、数年の付き合いを経た友人の気安さで発せられたが、花明は不快どころか僅かの違和感を抱くこともなかった。
「どちらからでも構いませんよ。それはお任せしますが、話すなら上に行きましょう」
 花明は、まとめた数冊の本を小脇に抱え、教壇を降りようと一歩足を踏み出す。
「彼に聞かれると都合が悪い話だ」
 友人から一転、拒否を許さぬ刑事の声であった。
「それでは仕方ないですね」
 花明は表情を硬くする。
 そうして、室外の廊下に注意を払いつつ、蜂須賀のすぐ傍にまで歩み寄った。
 花明が足を止めると、蜂須賀は声を落とし口を開く。
「先生が怪しいと踏んでいた目撃者だが、昨日のうちに殺害されていた」
「な!?」
「聞き込みの結果、どうも林葉子とその目撃者はデキていたらしい」
「桜子さんが? そんなはずは……」
 花明は言葉を失う。
 桜子が怜司以外の男と通じていたなど、到底受け入れられることではない。怜司が聞けば、冷静ではいられないだろう。
「被疑者は一人に絞られた」
 蜂須賀は簡潔な一言だけを述べる。
 一切の感情が含まれていないその言葉から、花明は自分たちが置かれた状況を察した。
 浮気した恋人を殺害し、その浮気相手をも手にかけた――これが警察の描く筋書きであろうことは、想像に易い。
「先生はまだ“彼”を信じるのかい?」
 蜂須賀の声に、ほんの少し感情が宿る。それは、哀れみや同情に良く似た性質のものではあったが、決定的に別物であった。
「勿論です」
 蜂須賀の意に反し、花明は断言する。
 単なる強がりやその場凌ぎではない。現実から目を逸らした妄言でもない。
「では、昨日の彼の行動について教えていただこう」
「昨日は、貴方がお帰りになってから、僕とずっと一緒でした。とはいえ、僕は一人で銭湯に行きましたから、三十分ほど一緒ではない時間がありました」
「その時間では現場との往復は不可能だな」
「いつ僕の家の場所を?」
「気を悪くしないでくれたまえ」
「いえ、僕からお伝えしておくべきでした。とにかく、犯行は不可能ですよね」
「しかしな、先生」
 蜂須賀は、間を計るように言葉を切る。
「彼は脛に傷を持つ身なのだろう? そして、先生はそのことを知ってる。だとすれば、今回の件を別に考えたとしても、その、なんだ、協力者として受け取られ兼ねない」
「僕の証言には、証拠能力がないんですか?」
「平たく言えばそういうことだが、認められるかどうかは五分五分だな」
 花明は唇を真一文字に結び、ぐっと視線を落とした。
 不意に強い風が吹き、カタカタと窓枠を鳴らす。
「たしか、いい報せと悪い報せがあると仰っていましたが、今のは悪い報せですよね」
 重苦しくなってしまった空気を変えんとして、花明は努めて軽い声を発した。
「いい報せといっても、手放しに喜べる類のものではないんだ。被害者の、林葉子の遺体が“ここ”にあるから、彼が望むなら会わせてやることができる」
 林葉子の遺体は、死因の特定と死亡推定時刻の割り出しを行うために、帝国大学法医学教室に運び込まれていた。
 帝国大学の法医学教室は、行政解剖と司法解剖の両方を嘱託されている。そのため、帝都で発見される死因が定かではない死体は、そのほとんどが運び込まれる。勿論、殺人事件の被害者も例外ではない。
 花明はそのことを知っている。林葉子の遺体は法医学教室に運び込まれるであろう、という限りなく確信に近い予測を持っていた。
 しかし花明は、怜司に伝えることができなかった。会わせてくれと懇願されることが分かっていたからだ。
 同じ帝国大学の助教授であっても、運び込まれた遺体を見ることなどできはしない。
「僕からもお願いします」
 花明は蜂須賀に向かって頭を下げる。
「おいおい、そんなことをする必要はないんだぞ」
作品名:幻燈館殺人事件 中篇 作家名:村崎右近