幻燈館殺人事件 中篇
犯行の現場となった資材倉庫には、凶器と成り得る鈍器がそこら中に置かれていた。そんな中で、たった一つしかない刃物を探し出す意味は薄い。突発的な犯行であれば、尚更にそのような冷静な判断を要する行動は不自然となる。加えて、身体的に劣る女性が男性に対して危害を加えようとしたのであれば話は別だが、身体的に勝る男性が女性を殺害する目的で使用するのならば、角材一つがあればいい。
「ですから、計画されていたのですよ」
花明の言葉は、ふわり、と蜂須賀を包んだ。
「いいですか? 現場となった資材倉庫は、偶然遭遇するような場所ではありません。桜子さんは、誰かと待ち合わせをしていた。これは、この殺人事件をどの角度から見たとしても変わりようがない事実です。相手の男は、現場を訪れる前、あの日あの時あの場所で、桜子さんと会うことを決めたその瞬間から、犯行を計画することができたのです。つまり犯人は、凶器を持ってあの倉庫を訪れ、凶器を持ってあの倉庫を離れた、そういうことではないでしょうか?」
「久瀬蓮司にも同じことが言えるな」
蜂須賀は、その顔に薄く笑みを湛えながらも、無感情に言い放った。
花明がどう返すのか、蜂須賀は分かっていたのだ。
「そうです。犯人と目される人物と、全く同じです」
今、この場所でできること、やるべきこと、それが何であるのか。
花明と蜂須賀は、視線を合わせて互いの意思を確認しあう。
今はまだ、久瀬蓮司への嫌疑を完全に晴らすことはできない。久瀬蓮司の他にも、被疑者が、共犯などではない完全に別の犯人が存在する可能性を示すこと。
自分一人ならば、心証で動くこともできる。しかし、他人を動かすにはそれ以上のものが必要となる。確たる証拠、とまではいかずとも、信用するに足る、もしくは、納得できる“新たな可能性”を示さなければならない。
二人の理解は同じであった。
即ち、真犯人へと向かうであろう新たな可能性が、今ここに示されたのだ。
「明日の捜査会議で、目撃証言の信憑性を訊ねるとしよう」
そう言って立ち上がった蜂須賀を、怜司は不思議なものを見る目で見上げる。
自分を信じてくれる人間がもう一人現れたことに、どう反応すればよいのか分からないでいるのだ。
「ところで先生、明日のご予定は?」
蜂須賀の声と表情は、満足と待望という二つの感情に満ちていた。
「もう調べてあるのでしょう? 講義がない午後は空いています」
蜂須賀は、ちらり、と怜司に視線を送る。
「ご友人の宿は決まっていないのだろう? こちらで手配しよう」
呆気に取られていた怜司は、蜂須賀の視線を受けて自分を取り戻した。
「せっかくの申し出だが、遠慮しておく。臭い飯を食うのはまだ先にとっておきたい」
怜司は、より親密になろうとしてユーモアを利かせたつもりであったが、怜司の思いとは裏腹に、蜂須賀の気に障ってしまった。
蜂須賀は眉をぐっと顰める。
信用はするが、疑いが晴れたわけではない。蜂須賀としては、被疑者である怜司の居場所を把握しておきたいと考えるのは当然のことだ。
「今夜は僕の家に」
花明は逸早く状況を察知し、双方に益となる一言だけを発した。
どちらかの一方の味方をすれば、他方との関係に支障が生まれてしまう。それは微細な亀裂かもしれない。しかし、二人は殺人事件の被疑者とそれを調べる刑事なのだ。これが、気心の知れた友人間で起きた諍いであったのならば、一笑に付すこともできただろう。
僅かの不和が不信を招く。したがって、花明が取るべき行動は、どちらの味方もしない、ではなく、双方の味方をする、が正解となる。
真実とは、ほんの些細なことで失われてしまうものだ。花明だけではない。この場にいる三人は、そのことを良く知っている。
「今日はこれで帰る。明日、また来る」
そう言い残し、蜂須賀は花明の研究室を去った。
花明が安堵の笑みを見せたのは、遠ざかっていく蜂須賀の足音が完全に聞こえなくなってからのことだった。
作品名:幻燈館殺人事件 中篇 作家名:村崎右近