幻燈館殺人事件 中篇
背凭れから上体を起こし、蜂須賀は目を輝かせた。
「だが気に入った。俺は先生の味方をする」
「それはどうも」
花明は、よりにこやかな笑顔を刻む。
「しかし、味方をしていただくようなことは何も在りませんので」
他に用がなければお帰りください、とばかりに、花明は出口を指し示した。
蜂須賀は表情を変えず、花明の腕と、その腕が指し示す先とに視線を投げる。
「強情だね」
花明は蜂須賀の一言に、帰る気はない、という意思を見出した。
「お帰りいただけないのなら、こちらが出て行きます」
「うん。いや、悪かった。確かに今の誘いを受れば、そちらのお友達が警察の捜している人物だと認めてしまうようなものだった」
「行きましょう」
花明は蜂須賀に背を向け、怜司に外に出るように促した。
「警察が捜しているのは、久瀬蓮司(くぜれんじ)という名の男だ」
蜂須賀の声は怜司の背中に向けて発せられていた。
久瀬蓮司というのは、逃亡生活をする怜司の偽名だ。
「今から名前を訊く。答えなければ、頭の固い現場の刑事に報告する。勿論、先生のこともな」
扉に手を伸ばしていた怜司の動きが、ぴたり、と止まる。
それを確認した蜂須賀は、僅かに語調を弱めた。
「名前の他に犯人の手掛かりはない。例え目の前に居たとしても、違う名前を名乗って別人だと言い張られてしまえば、本人だと断定することはできないんだ。言っている意味は分かるな? さっき言ったように、犯人逮捕に興味はないが、凶悪犯を野放しにするほど酔狂じゃない。これでも警察官なんでね」
「刑事さん、名前は?」
怜司が振り向かぬままに名を訊ねると、蜂須賀は満足気に微笑んだ。
「そういえば名乗るのを忘れていたな。蜂須賀直哉だ。よろしく、とは言わんが」
怜司は花明を押し退けて、蜂須賀と正対する。
「正気ですか!?」
花明は怜司の横顔に向け諌言を投げたが、自分の名を名乗ることに何の躊躇いがあろうか、と顔に書いてあるのを確認すると、自ら口を真一文字に引き結んで押し黙った。
怜司は、横目で花明を見やり、再び蜂須賀の視線を受け止めて背筋を伸ばした。
「九条怜司だ」
「いい名前だ」
蜂須賀は、まぁ座れよ、とばかりに自分の正面の席を指した。
怜司が勧めに応じて着座したため、花明もインバネスを脱いで怜司に続いた。
「犯人はあんたじゃないと考えている。理由は……まぁ、いろいろだ。とにかく、話してみなよ。その結果、やっぱりあんたが犯人だったとしたら、明日の朝にでも出直すさ」
そう言って、蜂須賀はケラケラと笑って見せた。
「最初に断っておくが」
怜司は蜂須賀とは対照的に重々しく口を開いた。
「この花明は、事件とは直接関係していない。俺が助けを求めただけで、まだ何の事情も知らない」
「これからここで話すつもりだったんだな?」
蜂須賀の視線を受けた花明は、そうです、とだけ答えた。
「心配はいらん。悪いようにはしないさ」
怜司が、信じよう、と即答すると、蜂須賀は視線を怜司に戻した。
「久瀬蓮司と森雪乃の二人が同居していたのは間違いないんだな?」
蜂須賀の発したそれは、確認というよりも、話の発端を作るためのものだった。
それを受け、怜司はゆっくりと息を吐き、虚ろな眼差しで静かに話し始めた。
作品名:幻燈館殺人事件 中篇 作家名:村崎右近