女の指
女はそこで初めて、私を見た。ハッとしたように目を見開き、しかし身じろぎ一つしなかった。ただ、困惑とも違う、強い感情の揺れが、そこにはあった。私はいちいちそんなことに頓着してはいられず、舌に任せて言葉を続けた。
「美しいだけではない、理想的でさえある。分かりますか。貴女の指は、私が常々探し求めていた指の理想そのものなんです。私は商売柄、様々な人と出会います。そしてその度に、その人間の指を見るのです。何故なら、指に興味があるからです。そう、指……美しい理想の指! 私はずっと探して来ました。いつもいかなる時も人の指ばかり見て生きてきました。それが、ようやく今日、探し求めていた理想の指、実在する理想の指に出会えたのですよ。しかし、私にも人並みに常識というものがあるのです。ですから、いくら理想の指だとは言え、そのためだけに貴女を追い回したり話しかけたりなんて出来る筈もないのです。分かりますか」
「ええ、……はい」
女は遠慮がちに頷いた。
「つまり貴方は、その……私の指を、理想的な美しい指だと、そう仰るんですね」
「その通りです」
私は深く頷いた。
次は、どこがどのように美しいかを説明するべきだろう。
そう思い、残していたお冷を呷り再び口を開こうとしたとき、女が思い切ったように声を出した。
「でしたら、その理想と仰るこの指を……貰っていただく訳には参りませんでしょうか」
「え?」
私は、自分の耳を疑った。
この指を、くれるだって? この美しい指を。理想の指を?
「しかし、……しかし、それでは貴方はどうするんです。指が無ければ、その……困るでしょう」
「そうでしょうが、……今の私には、もう必要のないものなのです」
「しかし、」
私は否定の言葉を口にしながら、抗いがたい誘惑に負けそうだった。目の前の指が私のものとなるのだとしたら、それは指にとっても喜ばしいことなのではないか。現に、持ち主である女が不要だと言うのだ。それを、渇望する私がもらい受けたとて何の不都合があるだろうか。
「良いのです。本当に、私の指が美しいのであれば、それを美しいと言ってくださる貴方に差し上げた方が、どんなに良いか知れません」
「しかし」
「私が良いと言うのですから」
私も真剣なら、女も真剣だった。私の耳はもう、喫茶店に流れていた筈のピアノ曲さえ聴き取れなくなっていた。ただひたすらに、女の言葉だけが、繰り返し響き渡っている。
貴方に差し上げた方が……差し上げた方が……。
「どうでしょうか。私には、もうあまり時間がないのです」
女は、ぐいと身を乗り出してくる。微かな髪の香りがしたが、それよりも距離を詰めてきた指に、心奪われる。
「この、指を」
言いながら差し出された女の右手を、私は半ば無意識で握りしめた。
「分かりました。では、貰い受けましょう」
自分でも自分の声の薄ら寒さにぞくりとしたが、女は何とも思わなかったらしい。やっと体温を手に入れたかのように唇をほころばせ、良かった、ありがとうございます、と笑った。私はそれを見ながら、笑顔とはこういう時にするものだったかとぼんやりと思った。
それから私と女は、まるで昔からの知り合いか恋人ででもあるかのように連れ立って、近くのホテルへ入った。部屋は一つで十分ではあったがそれぞれの部屋を取り、その後ですぐに私の部屋で落ち合った。女は心なしか、喫茶店の中で話した時より明るい表情をしている。
「それでは、早速……」
女が、左手で自分の右手指を掴んだ。その動作は全くの無造作に行われたが、そうすることが昔からの定めだったと言わんばかりに滑らかだった。
「いや、その前に」
私はその左手を押しとどめ、首を振った。女は、プレゼントの包装を開ける前に取り上げられた子供のように、ハッと私を見た。
「貴女から指を貰い受ける前に、私の指の話もしておかなくてはいけないと思いまして」
「貴方の指」
不思議そうに腕を下した女に、私は初めて自分の両手を開いて見せた。
「私の指は、昔務めていた職場で切り落とされてしまいましてね。ほら、この右手の薬指と左手の小指です」
ちょっと見ただけでは気付かれないような場所であり、他の長い指に隠れて普段は注意を受けることもないが、一度気付いてしまえばそれは否応なく目に飛び込んでくる、紛れもない空隙だった。その事故のせいで私は職を変える羽目になったのだが、それは今、問題ではない。
「私が人の指だけに関心を抱くようになったのは、こういう身体になってしまったからかもしれません。自分が失ってしまったものを他の人間は全く意識せずに使い、いや使うだけならまだしも、意味なくプラプラさせ持て余し、あまつさえ私の前に持ってきてヒラヒラ動かしたりするのです。私は人の指ばかり見て生きてきました。今では、指を見れば仕事を言い当てられるくらいです」
女は身じろぎもせずに私の話を聞いている。部屋の窓から差し込んできた真っ赤な光が、私の失われた薬指と小指を浮かび上がらせた。
「だから、貴女の理想の指をいただけることが幸せでならない。分かりますね、私の欲しい指が……」
女はこくりと素直に頷いて、それから予想もしていなかった動きをした。その理想の指で、私が前に突き出していた掌を撫でたのだった。それは丁寧な動作で、私の欠けた薬指と小指の肉の盛り上がりを、何か壊れ物でも扱うように静かに撫でたのだった。私にはもう、何も言うことは無かった。ただ黙って、女のするがままに任せるだけだ。
「では、この指を、貴方に差し上げます」
女はそう言って、再び左手で右手の薬指を摘まんだ。そして、きゅいっと捻った。指は清涼菓子のあっけなさで付け根から外れ、コロリと女の左掌に転がった。
「これで、一つ」
女は呟きつつ、今度は右手の人差し指で、左手の小指を摘まんだ。そちらも先と同様簡単に外れ、女の掌中には二つの指が並んだ。二つの、理想の肉片……。喫茶店で見た時には、遥か遠く、手の届くはずのない場所に脈動していた理想の指。
女はちょっとの間、その指を残った指で転がしてみたり、突いたり、ホテルの白けた蛍光灯の下に翳してみたりしていたが、唐突に涙を一筋、流した。そして、衝動に駆られたかのような激しさで一瞬、二つの指に口づけをした。
「どうぞ。これでもう、この指は貴方のものです」
女は言い、私の手の中にその二つを握らせた。私のものとなったそれらは、まだ生きていることを報告するように朗らかな温かさで、私の手を軽く弾いた。
「どうか……どうか大切にしてください」
「はい」
頭を下げて、再び上げた時、女の眼もとにも頬にも、既に涙も涙の跡も無かった。ここに来た時に感じた明るい感じも、今は失われていた。女はなんだか、冷たい一陣の風に吹かれて、孤独に立ち尽くしているようだった。
「それでは、私はもう行きます」
「ああ、……はい」
女のきっぱりとした態度は、私が並んで出ていくのを許すものではなかった。それで私は、女が立ち去る音を聞き、窓から顔を出して、女がホテルから出ていく後姿を見送ってから、部屋を出た。