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女の指

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 思わず口に出してしまってから、私は慌てて失態を隠そうとした。女の顔も見ず、すっかり冷めてしまった珈琲も顧みず、立ちあがり、女より先に会計を済まし、早足で店を出ようとした……が、女の方が速かった。女は席から立ちあがった私を見て、すかさず押しとどめたのだ。
「放してください……私は帰ります」
 女の力など、何でもない。やろうと思えば押しのけて行くことも出来た。そうしなかったのはひとえに、女の指の感触のせいだった。ジャケットとシャツを間に挟んでいるにも関わらず、それはつぶさに、私の腕に伝わってきた。細い、五つに別れた肉の管……それが、衣服に包まれた私の肉を掴んでいる。いや、掴むなんて大したものではない。そっと、添えるように凭れ掛かっていると言った方が相応しい。
 女はその五指に、ほんの少しだけ力を入れて、私を椅子に座らせてしまった。私は仕方なく座り直し、女を見上げた。女は先ほどよりもしっかりとした表情をしていた。それは、自分の行動に驚いているようにも見えた。
「……あの……すみません」
「全くですよ。私は何もしていません。なのに何故、見も知らない貴女に引き留められねばいかんのです」
「それは、その……」
 すみません、と再度口の中で呟いて、女は私の向かいの席へ坐った。
「ちょっと、困りますよ……」
「すみません」
 実際、その時の私にはもう社に帰る以外の用事は無かったし、それが終わればもう帰るだけで良かった。だから困ることなど何一つなかったし、むしろ女の指をじっくり眺める絶好の機会だと思った。私の言葉は、一片の真実をも含んでいやしなかったのだ。
 しかし女は申し訳なさそうに頭を下げた。両手はテーブルの上にきちんと揃えられていて、女の誠意を雄弁に物語っている。
「ええっと……貴方は、窓の外の何をご覧になっていたのでしょうか」
「そんなことを聞きたいのですか」
「はい」
 私にはさっぱり理解できない質問だったが、ひょっとすると、私への疑いは完全に晴れた訳ではなかったのかもしれない。となると、私の方でもそれ相応の答えを提供しなくてはいけないだろう。私は一瞬考えて、それから答えた。
「通行人を見ていただけですよ。マンウォッチング、人間観察、というやつです」
「通行人……ですか」
 女は納得いかないように眉をひそめた。
「先ほどから、あそこは誰も通っていませんが……」
「…………」
 失敗したな、ということはすぐに分かった。そもそも女は最初から、私の嘘など信じていなかったのだろう。その上で、わざと乗ったフリをして、私が尻尾を出すのを待っていたのだ。
「……嘘をついている、と仰いたいので?」
「いえ、そんな……。そういう訳ではないのです」
 女は、そこで初めて感情を顔に出した。困惑、そして迷い。右手を口元に当て、女は自分の中の答えを引っ張り出そうとしているようだ。私の視線は、その右手指に引き寄せられた。だがしかし、今は悠長に見とれている場合ではない。
「知りたいのです、私は……貴方が、私の何を、熱心に見ていたのか」
 急に、吐き出すように発された言葉に、私は虚を突かれた。まさか、そう来るとは思っていなかった。警察にでも何にでも突き出される覚悟をしかけていたところだったのだが、その必要は無かったのだろうか。
 女は、思ったより大きな声を出してしまったと思ったのか、口元を両手で覆った。
「すみません……」
「いえ、……」
 女が頭を下げるのにつられそうになって、私は慌てて顔を上げた。しかし、心臓は跳ね上がらんばかりに動いていた。警察に突き出される心配はなくなったかもしれないとは言え、女は私が女を見ていたということに……いや、女の何かを見ていたということに……気付いていたというのだ。顔中の毛穴から汗が噴き出すような気がした。
「先ほども申し上げましたが、私は窓の外を見ていたのです。通行人がいなかったと仰いましたが、貴女が目を離したちょっとした隙に通っていたかもしれないではありませんか。ねえ、そうじゃないでしょうか」
 私の言葉に、女は沈黙した。しかし、何一つ納得出来ていないようなのは、目の動きですぐに分かった。
「私は、自分が見られていたとは思いません。私なんかを見ても、仕方のないことですから。でも、貴方が私の体のどこかを見ていたことくらい、すぐに分かりました。それは、例え窓の反射光が無かったとしても同じことです」
 私は思わず、先ほどまで女が座っていた窓際へと目を向けてしまった。成程確かに、微かに私の顔が映っている。そして、そこに目を向けてしまったということそれ自体が、女の言葉を何よりも肯定するのだということに気付いた。
 再び向き合った女は、相変わらずの表情で、私の肩越しに何かを見ているようだった。先ほど見せた困惑の表情は既に失せ、そこに感情の動きは見受けられない。
「分かりました。……分かりました」
 私は、それまで張っていた肩肘を弛緩させ、浮かしかけていた腰を沈めた。
「言い逃れは出来ないようですから、正直に申し上げます」
テーブルの上の女の指を見ながら、私は言った。
「指なんです」
「指」
「ええ。私は貴女の、指を見ていたのです」
「…………」
 女は、さっきよりは少し程度の落ちた、それでも確かな戸惑いを露にした。顔を動かした拍子に、長い黒髪が顔の右半分を覆った。
「おかしいとお思いでしょう。分かります。私だって、人の指ばかりに興味が向くのはおかしなことだと思っているのですから。しかし貴女、考えてもみなさい。人間の指ほど、不可思議な形状をしたものはありませんよ。丸っこい肉の塊から突き出た、ひょろりとした指。ほかの動物を御覧なさい、ここまで詳細な動きをすることの出来る指を持ち合わせている動物は、そうそういません。だいたいは、木登りに必要だったり、獲物をしとめるために使ったり……そういう限定した使い方しかされません。しかし私たちの指はどうです。その気になれば楽器を演奏したり機械を操ったり、高度な動きを容易く可能にしてしまう。そしてそれは、手の指以外では殆ど期待できない機能なんですよ。もちろん極まれに、手の指を失ったり先天的に持ち合わせていなかったりする人間が、訓練して足の指や口でそれらの機能を代用する場合もありますが、それは結局のところ、人間の手指というものの機能性を改めて証明しているに過ぎないのではないでしょうか」
 私は、先ほどまでとは打って変わって熱情的にまくしたてた。それは半ば無意識のうちに、日ごろ抱いてきた指という器官に対する執着を、誰かに伝えたいと思ったためかもしれなかった。そう、私は常に指に執着してきた。指という不可思議なものに傾倒してきた。だが、私には常識というものも備わっている。だからこそ、今まで誰にも、この秘めた思いを打ち明けるなどということはしてこなかったのである。
 しかし、今は少なくとも、私には話して良い理由があった。話して良いという許可があった。目の前の女に反応が殆ど見受けられなくとも、私には話す義務、いや権利があったのだ。
「貴女の指は、美しい」
作品名:女の指 作家名:tei