幻燈館殺人事件 前篇
「あの日、使用人を使い私を怜司さんの元へ仕向けたのはお前、吉乃さまを怜司さんの元へ向かわせたのもお前なんだ! 私はねぇ、見つけたのよ。探して探して探してやっとの思いで見つけたの。そう! この館を離れたあの使用人をね。この世に神様がいるとしたら、せめてものご慈悲を私に与えて下さったのかもしれない。偶然だなんて思えなかった、あの使用人を見つけた時――私は全てを吐き出させてやろうと胸が躍ったわ」
桜子の眼は真夏の太陽のようにぎらぎらと燃えていて、その目に射すくめられたかのように大河は身を固くし、「まさか……あいつは死んだはず……」とだけ渇いた声で口にした。
「爪が甘かったわね、九条家の当主ともあろう者が。あの使用人が死んだ? 生きていたのよ、まさに虫の息だったみたいだけれど。通りすがりの人間に助けられて、この村から離れた場所で生きていたの。お前はあの使用人が死にさえすれば、真実を知る者は誰もいないとでも思ったのでしょう? でも現実はそうはいかなかった。お前は余りにも人間の情と言う物を甘く見過ぎた。愛という情の為に怜司さんは苦しみながらも私を殺せなかった。愛という情がゆえに、怜司さんは相貌失認症に陥った。そして私の深い憎悪はそのまま執念へと変貌し、あの使用人を見つけ出したのよ」
桜子は喉の奥でくくっと笑うと、猫が鼠を弄ぶかのように、じわりと大河に詰め寄った。
「あの使用人、あなたに命令されて仕方なくやった事で、自分でもそれがどんな結果を招くかだなんて知りもしなかったって言ってたわ。それを正面から信じられるほど、私はもう純粋では無かったけど、でも彼女は私にとても協力的だった。よほどお前に殺されかけた事が効いていたのでしょうね。女の復讐心というものを、甘く見ない方がいいという事よ。女好きの九条家当主、九条大河さま?」
ふふっと今度は声を出して桜子は笑う。彼女の告白を止める者は、最早誰もいなかった。
「あの使用人、あなたのお手付きだったそうじゃない? 好きなように弄ばれて利用されて、最後には殺されそうになった……。彼女の気持ちを思うとどう? 全て吐くのは当然じゃない? 私は彼女から全てを聞いた。お前が私と、そして新しい愛人――代美の為に邪魔になった吉乃さまを処分する為に、怜司さんを利用した事をね。さらにこんな事も言っていたわ……怜司さんは近く代美と言う女と結婚する。そして間もなく妊娠する事になるが、それは勿論怜司さまの子供ではないって。日数を誤魔化す為に実家へ戻らせて出産させるのだと。さすがに耳を疑ったわよ。しかもそれをお前が彼女に寝具の上で語ったって聞いて身震いさえしたわ。そしてね、そして私は」
そこまで吐き捨てるように言うと、桜子の瞳からはいよいよ大粒の涙が零れ溢れ出し、それはもう止まらなかった。
「私は怜司さんが不憫で、堪らなくて……! だから戻ってきたのよ! この幻燈館を破壊するために! ……代美を殺す時の私の心は静かなものだったわ。会食後の後片付けを済ませた当直以外の人間が別棟に戻り始める、人の動きが分かりにくい一瞬の時間に、代美の部屋へと私は向かった。静かに扉を叩いて何の反応もない事を確かめてから入室すると、さんざん飲んでいたあの女は既にぐっすり眠っていた。返り血が残るのを防ぐために服を素早く脱いだ後、ナイフを握りしめ代美に近づいた。あの女を殺す事に何の躊躇もなかったわ。九条家の財産だけを目当てにやってきた醜い女。自分の夫を平気な顔で欺き続ける不貞の女。憎しみを込めて、あの女にナイフを下した。無抵抗のただ眠っているだけの女の心臓に、私はナイフを振り下ろしてやったのよ!」
そこまで告白すると、うああああっ! と声をあげて桜子は泣いた。その肩を抱くと、怜司はかつてない怒りを込めて大河をその目に捕らえた。
「……問おう。今聞いた事は、本当か?」
「…………」
「本当かと聞いているんだ!」
怜司の絶叫にも似た問いに、大河も沈黙を破った。
「だったらどうする? たとえ事実がどうであろうと、あれを殺したのはお前だろう、怜司」
この期に及んでも尚、煽るかのように不敵な言葉を発するのは、さすがは九条家当主といった所か。その息子である怜司は肩を震わせながら哄笑した。
「ふ、ははははは! ははははははは!」
ひとしきり笑うと桜子の肩を離し、広間の入口に飾ってあったあの西洋鎧の剣をきんっと引き抜いた。
「怜司さん、何をする気だね!」
剣を携え大河ににじり寄る怜司に、小野田警部が大きな声で呼び止める。
「殺人をするんですよ」
警部の問いに当たり前とでも言いたげに、怜司は冷たく答えた。
「罪を犯すんです。母を殺したのは殺戮衝動がゆえだった。それは無自覚な衝動だ。でも今度は違う。自分の意思で殺すんです、この男を。桜子が僕の為にそうしてくれたように」
ゆらりと歩みを進める怜司の背中に桜子がしがみ付く。その温もりを感じると、怜司は一度瞼を閉じた。
「お止し下さい! 私が……既に人殺しである私が!」
「桜子、君と同じ景色が見たいな。いつか、また……。その為に同じ罪を背負わせてくれ。それが、俺の――」
そこまで言うと怜司はかっと目を見開き、桜子を振りほどくと素早く大河の前へと身を翻した。「怜司さん!」誰の声かは分らない。分からないが誰もが怜司を止めようとした――しかしその誰もが間に合う事は無く「ぐぉっ!」という鈍い大河の声と血潮が広間に広がった。
「きゃあああああ!」
狭山と斎藤が支えあうようにして、甲高い叫び声をあげる。正面から刺された切っ先は、大河の背まで貫いていた。
すぐさま大河に蝶子が駆け寄り、自分の服を引き裂くと止血を試み「小野田警部! どうか、どうかお医者さまを!」そう叫ぶ。
その叫び声に弾かれたように小野田警部の体は動き、医者を迎えに行くように早川に指示し、自分も広間から急ぎ立ち去った。
「ああ、大河さま……」
蝶子は大河の手を握りしめると、その場に座り込んだ。
使用人達は一様に固まってしまい、誰も動くことすらできない。その様子を荒く息を吐きながら怜司はぼうっと見ていた。そんな怜司の手を引くものがいた。
「怜司さん」
「さ、桜子……?」
桜子は怜司の手をさらに強く引く。怜司はその手に導かれるように、ふらふらと足を動かした。
「行きましょう、怜司さん。吉乃さまが仰っていたように、別れられないのなら二人で逃げるのです。どこまでも……」
「桜子……だが」
「罪は償います。けれどそれは国が決めた方法じゃない。だってこんな事、こんな奇妙な事件、この国に裁けて? 人を殺す事は紛れもなく罪です。では精神に異常をきたす病を持った人間が、殺人を犯す事は罪でしょうか。その病を利用して邪魔な人間を排除した者は、実際に殺人を犯した人間とどちらの罪が重いのでしょう。そんな風に苦しむ人間を利用した外道を復讐心から破滅させる事は、やはり罪でしょうか? 罪ならば利用された者は、ただ泣き濡れるしかないではありませんか。私は……そんなのは厭です。そんな正義は望まない。怜司さん、私達は不敵な罪人として生きましょう。二人で……!」
作品名:幻燈館殺人事件 前篇 作家名:有馬音文