セツエン
十二
松明を地面に挿し、セツエンは両手で槍を構えた。風が吹き、木の枝を揺らす。積もった雪がぼとぼとと落ちた。風が止むと夜の森から音が消えた。しばらく辺りを見回すも動きはなく、切っ先を降ろす。
足音に気づいた時には遅かった。左足に激しい痛みが走る。武器を振るうも後ろに跳ばれ避けられる。薄黒い畜生が距離をおき、喉を鳴らしてセツエンを睨む。犬に似たそれは、狼。彼が思い描いた姿よりも小さく、まだ若い獣のようだ。
「来い。まずはお前を殺してやる……」
若狼が飛びかかる。セツエンは槍を構え、突いた。黒い爪が届くより先に、鉄の刃が毛を滑りながら皮を切り裂く。獣は地面に落ちて倒れるも、ふらつきながら立ち上がる。流れ出る血に白い湯気があがる。セツエンの手が震えた。傷つく獣にカンムの姿が重なって見えた。
「……お前が、お前らがやったことだ!」
踏み込み、槍を突き出す。獣は身をよじって躱す。青年の一瞬の迷いは体に伝わり、動きをにぶらせる。素早く槍の柄に噛みつかれ、その力にセツエンは手を離す。腰から短刀を抜き、狼の頭へ斬りかかる。後ろに退かれるも獣の頬には赤い一筋を残す。間を開けて向かい合う。右手がじんわりと痛んだ。気づかぬ内に獣の牙が手袋を貫いていたのだ。
四方から獣たちのうなり声が響き渡る。群れに囲まれたとセツエンは察する。そうして、恐れるでもなく、まるで喜ぶように歪な笑みを浮かべながら、吠える。
「お前らが俺の全てを奪った。……だから、お前らを殺す」
松明の届かぬ先で十数の影がゆらめくのを青年の目は捉える。若狼を守るように二匹の狼が前に出た。毛は灰色、体は二回り程大きい。セツエンは右手で小刀を構えながら、左手でもう一つの巾着を掴む。その封を切ろうとしていた。
袋の中身は彼の憎しみを表すような禍々しい毒液である。狼は鼻が利くのでそのままでは口にしない。傷つけ合うことで相手を興奮させ、毒を被った己を奴らに食わせる。我が身は毒に焼かれて死ぬだろう。だが、畜生らに、苦しい死、死まで至らぬにせよ、苦しみある生を与える事は出来る。それが、セツエンの復讐だった。
暗闇に潜む獣たちが青年へと忍び寄り、その姿は淡く照らされる。光を受けて幾つもの茶色い瞳が闇に浮かぶ。その中に、ただ二つ、翠色の宝玉のごとく輝くものがある。セツエンはじっと見つめる。毒を空気に晒そうとする手を止めて、その持ち主を確かめる。
「お前は、お前は……?」
初めは幻だと思った。だが、あの色は確かにそこにあった。
「……カンム?」
灰色の毛は白さが混じり、体も少し痩せている。だが、こちらへ向かう足どりも、あの瞳も、彼の覚えているカンムとぴたりと重なった。翠色の瞳をした獣は、赤く染められた若い狼へゆっくりと近づき、愛しげにその傷を舐めた。
「カンムなのか?」
投げかけた言葉に返るものはない。翠の瞳と黒い瞳が互いを映したのは一瞬だった。雪をはらむ強風が吹き荒れ、視界は白く塗りつぶされる。冷気が毛皮を打ち破り、鈍い痛みに襲われる。立っているだけで精一杯だった。それでも、獣の正体を確かめるために踏み出す。突然、現れた影に右腕を噛みつかれた。短刀を振るう。手応えはなく、影は白の中に溶け込んだ。
「……違う。あいつは、ただの畜生だ」
己を襲う輩と共にカンムが居るはずがない。翠目の獣は彼女に似ているだけの狼だ。己を騙す罠だ。踏み込み、喉をかっ切れ。復讐へと勇む心を、ある問いが邪魔をする。先の若狼とその同胞の瞳は茶色だった。なぜ一匹だけ翠色の瞳の奴が混じっているのだろう。もし、奴が生まれながらの群れの一員ならば、少なからず似た同胞がいるはずではないか。彼はその問いに答えられない。
風が止んだ。青年は翠色の瞳の獣と正対していた。獣は頭を下げ、セツエンの首元を睨みつける。彼の知っているカンムは優しく気高い心を持っていた。その姿は重要ではない。集団でなぶる狼のような真似はしない。彼はそう考え、決意を固めるために叫ぶ。
「お前も、まとめて殺してやる」
小刀で斬りかかる。刃が血を食らうことは叶わずに、彼の脇腹は切り裂かれる。すれ違う一瞬、獣と目があった。交わした視線が記憶を強くたぐり寄せる。秋風に枯葉を奪われたあの日、カンムは少年を守るため男に立ち向かった。その瞳には、同胞を傷つけたものへの憎しみ、守ろうとする決意が込められていた。今、目にした瞳も全く同じだった。セツエンにはそう感じられた。異なるのはそれが向かう先だけだった。
脇腹から血と共に力が抜けていく。百姓が畑を耕すように、狼が群れで狩りをするのは当然のことだ。その行いに貴賤をつけて目前の獣がカンムでないと何故言える。そんなことはセツエンにだって分かっている。ただ、認めたくなかったのだ。
狼と共に居るのは彼女が彼らを家族と思っているからだろう。あの冬の血は、彼女のものでは無かったのかもしれない。もし、そうならば初めから狼らに罪はない。
青年が冷静だったかは定かでない。それでも、彼はある確信を持って答えを出した。
「カンム、お前はこいつらに助けられたんか」
人の言葉に獣から返事があるはずもない。いつからだろう。汚らわしいと感じていた言葉に頼るようになったのは。それは彼女と別れるより前のことだ。来たるべき幸せな日々を思い描き、その考えに縛られるようになった。言葉と考えに振り回され、彼女を見ることをしなかった。それは何故だろう。セツエンは己に問う。思い浮かぶは、夏の終わり。
「……ああ、そうか。そうだな」
気づいていたのだ。オヤユの子らに会った時、なぜ心苦しくなったのか。己の名を呼ばれる喜び、父のような狩人になる憧れ、それらを捨てられないと知った。その願いがカンムとだけの日々を壊すと気づきながらも、求めるのを押さえられなかった。彼女の為という言い分で、崩れゆくカンムとの暮らしから目をそらした。セツエンは悲しげに笑い、毒の入った袋を遠くへ投げ捨てた。
じっと彼女の瞳を見つめる。言葉が届かずとも、いつかのように想いが伝わるように願う。すまない。狩ってくれた兎をオヤユたちに渡した時、お前はどう感じただろう。男達に付き従って傷だらけのお前を置いていった時、どう感じただろう。己にはお前しか居ないという素振りで、人間らにこびを売った。お前は己のために窮屈な村に居てくれたのに、己はお前を見捨てたのだ。青年は小刀を放り投げる。
牙が光る。柔らかな毛の下でしなやかな筋肉が形を変える。彼女の毛色は雪の白と良くなじんだ。美しかった。四つ足の獣は駆ける。二つ足で直立する人間の首筋に狙いをつけて。
懐かしかった。凍える冬の夜、彼女の毛にくるまって温まったあの時が。飢えに動けなくなった日、狩った兎を分け与えてくれたあの時が。木登りをして実に手を伸ばし、落っこちた己のすり傷を舐めてくれたあの時が。日が暮れるまで共に山を走り回ったあの時が。独りぼっちの暮らし、凍てつく日々に温もりを与えてくれた。家族を失った同士だからこそ家族になれた。それを裏切ったのは己だ。そうセツエンは認める。