セツエン
彼女は新しい家族を得た。青年が踏み出せなかった一歩を悠々と歩んだのだ。彼は友の家族を傷つけた己を恨む。彼女を人の村へ縛り付けた己を憎む。謝りたかった。情けなかった。ただ何よりも彼女が同胞の輪に入れたことが誇らしく嬉しかった。彼女を祝う気持ちが胸にあふれる。幸せを祈る。青年から翠目の獣へかける言葉はない。
優しく微笑みながらセツエンは目をつむる。動くのは止めた。それが唯一、彼女のために出来ることに思えた。死は怖くなかった。
飛びかかる獣の鼻先を鋭い矢が切り裂いた。赤々と燃える松明が投げ込まれる。幾つもの矢が飛び交い、狼たちは散り散りに逃げ惑う。枯れ木の裏から大男が現れ、セツエンへと駆け寄る。目を閉じたまま立ち尽くす青年の肩を男は強く揺すった。
セツエンはゆっくり目を開ける。ぼんやりと歪んだ視界でも相手がオヤユと分かった。暖かな格好をしているはずなのに狩頭の体はひどく震えていた。
オヤユは拳を振り上げ、青年の顔を殴った。セツエンはなされるままに倒れ、再び目蓋を下ろす。腕を引っ張られ、乱暴に背負われた。オヤユが青年に手を上げるのは初めての事だった。
幼い頃、父に背負われたことをセツエンは思い出す。どんな不安も受け止めてくれるように感じたものだった。だが、この背は違う。同じようには頼れない。
ふと、子をおぶうオヤユの姿が思い浮かんだ。ある日、彼の息子にグミの実の採れる所を教えた。少年は掴みきれぬほど手にとって着物の内側へ蓄えた。姉の分まで持ち帰ろうとしたのだ。少し抜けていて、村につく頃にはほとんど落としていた。弓矢の練習でへまをしないように青年は願う。もし、己が教えたら屈託無く笑ってくれただろうか。少年たちの笑顔を思い浮かべ、セツエンは微笑む。しかし脇腹の強い痛みがその光景をかき消した。
傍らに人の気配を感じた。すぐ尻を強く叩かれる。目を開けずともモンの仕業だと分かった。彼はすぐ手を上げるし、口が悪い。その行いへ混じる嘘に青年は気づいている。憎まれ口をききながら、足の悪い彼の父を助ける姿を何度も目にしてきた。山から下りれば馬鹿だ愚図だと己をなじるだろう。どんな言葉で返そうかと考えて、セツエンは己の愚かな考えを笑おうとして、笑えなかった。
痛みをこらえ、強く目をつむる。二つの翡翠が暗闇に浮かんで見える。血と共に己の命は流れ出ているのだろうか。望み通り死ぬのだろうか。背へしがみつく力は強くなる。頬にあたる毛皮は硬かったが、じんわりと温もりが伝わった。
オヤユは口数が少ない。いつだか息子を追いかけて石に足を強くぶつけた時も、痛みの声もあげず表情も変わらなかった。痛みに鈍感なのかとセツエンは思った。我慢しているだけと彼の娘は言った。なぜ我慢するのか尋ねると、不器用なんだと彼女の母が答えた。呆れたような口ぶりでも、その響きには親しみと敬う気持ちが込められているのが青年にも分かった。
セツエンは頬の痛みを感じている。いつか誰かに殴られた時とはまるで違った。その痛みは、血の溢れる腹の傷よりも力強く、彼の心を揺り動かす。
知らぬうちに幾つもの日々を、多くの人々の表情を覚えていた。今の彼らはどういう顔で、どんな事をしているだろう。明日の彼らは、明日の己は何をしているだろう。己の鼓動が聞こえる。音が打たれるたびに翡翠は闇に溶けてゆく。強く、もっと強く響けと彼は願う。そうして、セツエンは己が心を覚る。
松明の光に毛皮がきらめいた。その雫は溶けた雪か、青年の頬から伝わったものか。眠ったように力の抜けた体をオヤユの背中に預ける。男達は子どもを守りながら、火に暖められた小屋へと向かう。
残された小刀は降り積もる雪に隠されていく。一度埋まればこの冬の間、露わになることは無いだろう。次に姿を見せる時は、固い冬芽が姿を変え、ふきのとうが顔を出す頃。草は萌えゆき、錆びた鉄は茂る青に覆い隠され、いつかはその上で何かの蕾が膨らむことだろう。