セツエン
十
静かだった。風が吹き、小屋をきしませる。ぼん、と何かが弾けるような音がした。遠くで木に積もった雪が落ちたようだ。それでも、静かな夜の雪山だった。山小屋では男四人が無言で火を囲っている。その輪に入らずに、セツエンは外に出て辺りを見回す。
あの後、カンムの行方を探ったが、雪風が強くなり動くのが困難になった。昨夜と同じように雪穴で一夜を過ごす事となり、夜が明けるとカンムの通った跡は消えていた。日が暮れるまで辺りを探すも犬の影はなく、一縷の望みをかけて小屋まで戻ったのだった。
小屋にもカンムは居なかった。探す当てがないために青年は帰りを待つしか出来ない。たくましい彼女なら難なく一夜を越せているだろう。明日になれば犬を借りて臭いを辿れるかもしれない。そんな考えが幾つわいても心が落ち着くはずがなかった。
すすけた色の空、ほこりのような雪がはらはらと舞い落ちる。雲は月を覆い隠し、何かを暗示するように不気味な形で薄光りしている。時に、それは哀しい瞳をした犬の横顔に見えた。手袋に落ちた白い雪片は毛皮の上で溶けて透明な雫となる。冷たい空気を吸うと胸の内側まで凍てつくように感じられた。
びゅうびゅうと風が吹いた。冷気になでられて頬が傷む。風は止まない。そこへ小さな声がまぎれているのに青年は気づいた。雪を踏みつけ、その出所を探る。
それは、血まみれの犬だった。
甘えるように鼻を鳴らし、四つの足は弱々しく震えている。ふわふわとした毛はむしられ、右の脇腹は赤く染まり血が滴る。いつもの威張っている彼女はそこにいなかった。
セツエンは恐る恐る彼女へ手を伸ばす。頬へ手が触れる。力が抜けて地面に膝をついた。カンムを抱く。痛々しい姿を見るのが辛かった。彼女を守れなかった己が情けなかった。悔しかった。そして、帰ってきてくれたことが嬉しかった。セツエンはただ泣くことしか出来なかった。
翌日、吹雪に阻まれて狩人たちは小屋から出られなかった。獲物を分け合って肉鍋をつくり腹を満たす。セツエンは貰った汁を半分に分けてカンムの前へ置いた。じっと床へ伏せたまま、彼女は器に口をつけなかった。
脇腹についた大きな傷跡から、彼女を襲ったのが冬眠に失敗した熊ではないかとセツエンは考えていた。己の着物を切り破り、雪を溶かした水で洗う。その布で傷を覆った。カンムは後ろ足で腹をかく。傷に触れるのは良くないと伝えようとして、彼は言葉が通じぬもどかしさを感じた。
何をするでなく夜となり、セツエンは男達に挟まれて横になる。目をつむり、明日からのことを考える。カンムを連れて家へ帰りたかった。だが、この狩りでは羚羊を一匹仕留めただけだ。戻ったとして食べるものは何もない。セツエンは強く歯を食いしばる。カンムとだけの生活を守るため、彼女の傷を癒やすために、もっと獲物が必要だった。
空に雲はなく、太陽は強く輝いている。照り返す雪面に目がくらむほどだ。日が昇って早々に男達は狩りの準備を始める。オヤユが床に指をさして「残るか?」とセツエンに仕草で尋ねる。青年は首を振る。カンムを小屋へ残して狩りに出ることを決めていた。人が手をつけた肉を彼女は口にしない。だから、己が彼女のために狩らなければならない。青年はそう考える。
小屋から出ようとしたその時、翡翠のような瞳と、黒い瞳が互いを映した。カンムが立ち上がる。だが痛みのせいか直ぐに膝をつき、そのまま床に伏せた。セツエンは駆け寄って「ここで寝ていろ」と思いを伝えるため頭をなでる。立ち上がり、背を向けた。
背中に感じる視線が彼の動きを縛る。置いていきたくなど無い。彼女の隣にいたい。その気持ちが甘えに思えた。セツエンは左足から踏み出して、彼女を守るために山奥へ足を進めた。
狩りが始まる。たくさん獣を仕留めて、彼女に肉を食わせ、傷を癒やしてもらおう。セツエンはそう思った。全ては彼女との今後のためだった。
獲物を抱えて戻ってきたセツエンを迎えたのは、床に跳ねた大量の血痕と、雪に残る狼どもの足跡だった。小屋は荒らされ、彼女の傷を覆っていた布は血に沈んでいた。カンムは何処にもいなかった。吹雪く中、セツエンはろくな装備もせず外へ出る。彼女の姿を探した。男達は彼を押さえる。青年はもがき、泣き叫び、気を失った。
山を降ろされて村に戻っても、セツエンは床に着いたままうなされ続けた。強く握った武器で羚羊の首元を殴る。飛び跳ねた熱い赤い液体が雪を溶かす。獣の命は絶たれた。屍の瞳は開いたまま、こちらを見つめる。その色は美しい翠色。己が殺めたのは、愛しき家族。同じ夢を繰り返し見続けた。セツエンの頭は受け入れられなかった。彼の生活を彩る唯一の存在を失ったということを。