セツエン
九
朝早くに目を覚まし、簡単な食事を済まして三人は直ぐ狩りを再開した。羚羊の臭いを辿る四つの足は速かった。昨日の疲れのせいか、セツエンは雪に足を取られ思うように歩けない。カンムとの距離は開くばかりだ。かんじきを使い慣れたモンとオヤユはぬからない部分を踏み、難なく前へ進みゆく。青年の目に映るは男二人の背中、昨晩の想像とは真逆の光景だった。
左足に痛みが走る。冷えからか、疲れのためか、それとも。痺れは強くなり、足は石のように固まる。闇夜の別れ、その影に冷たい地面へと縛り付けられているようだった。一人、己は独りで取り残される。「カンム」そう名を呼べば彼女は己の元へ駆けつけてくれるだろう。そうしてまた甘えるのか。昨日の決意はどうした。己は何の為に山に来た。顔を上げ、セツエンは大きく息を吐いた。吐息に視界は白く染まる。
目を見開き、歯を食いしばる。セツエンは己を鼓舞する。傷はとっくに癒えているはずだ。なぜ立ち止まる。今こそ、父のように立派な狩人となる時、カンムへ追いつけ。さあ、行け。
セツエンは坂を駆け下り、跳んだ。かんじきが雪を煙のように舞い上がらせ、青年の姿は煙に乗って飛んでいるかのようだった。左足の痛みは消え失せた。勢いに任せ二人を追い抜き、カンムを目指す。夢中だった。体勢を崩しても槍を杖にして滑るように進む。決して止まらない。体中が火照って、力が漲っていた。
カンムをようやく目で捉えた。彼女は何かに吠えかかっている。青年の目にも相手が映る。羚羊がいる。下へ下へと走り逃げている。カンムは一瞬こちらを見た。しかし、直ぐ前へ向き直る。それで良い。己の為に立ち止まることは無い。己がお前に追いつく。セツエンは力強く前に進む。
前足が雪にぬかるみ、羚羊の動きがにぶった。隙を逃さず、カンムは後ろの股に噛みつく。羚羊が振り向けば耳元に飛びかかり血をすする。セツエンは槍を放り、腰から引き抜いたへらを両手に構える。毛に滑ることのある槍ではなく、へらを棍棒がわりに使うのだ。反撃を受けぬよう横から忍び寄ろうとした。その時、痛みにもだえた羚羊が足を振り上げ、蹄がカンムの腹に食い込んだ。
「カンム！」
セツエンは走りながらへらを振り上げる。カンムは素早く身を引く。堅い木で出来たへらは、真横から獣の角と後頭部の間に下ろされ、強い衝撃は頭蓋を抜けて脳まで届く。大きく見開いた瞳に青年の姿が映る。セツエンはひるまず叩きつける。二度、三度、ぶっ叩く。羚羊は横に倒れ、口からこぼれた血が雪を溶かした。
興奮か、または達成感に頭を埋め尽くされ、青年は次に何をすべきか分からない。屍の喉元へ噛みつくカンムを茫然と眺める。強く握りしめた手のひらが痛んだ。大きな獣の命を奪ったのは初めてで、見開いたままの黒目がまだ己を見ているようで不気味だった。カンムが吠えたのにはっとして、オヤユとモンが近くに来て居たことに気づいた。
へらを振ってオヤユはカンムを獲物から遠ざけようとしていた。モンに尻をはたかれてセツエンは彼女を抱える。二人の狩人は獲物を川岸まで運んだ。熊や羚羊など大きな動物を狩った後に、獣を弔い、山の神へ捧げる習わしがあった。それを仕切るのは止めを刺した者ではなく頭の役目だった。
渓流までたどり着くと、オヤユは冷水で口をすすぎ、禊ぎを済ませ、小刀で羚羊の皮をはいだ。白い筋と赤い肉が露わになった獣は別の生き物のように見えた。オヤユは、はいだ皮の毛の側を前に向けて両手で広げ持つ。他のものに聞こえぬように狩頭秘伝の唱え言を口にした後、屍へとはいだ毛皮をかぶせた。
弔いの儀式を終えるとオヤユ、モン、セツエンの順で獣の血を飲んだ。血は少し塩気のある味で、どろりと胃まで流れ落ちた。飲んで早々に喉が渇くのがセツエンは不思議だった。しばらくすると血の効果か体が内側から熱くなってきた。
カンムはずっと獣の屍のほうを向いていた。青年が器に入れた血を勧めても顔を背けた。男達は肉を部位ごとに切り分けて串に刺す。青年は自分のとは別に、カンムの分を切りわけて目の前に置いた。
モンが手もちの石で火をおこし、集めておいた枯れ木を燃やす。三人は串を手に持ち肉をあぶる。焼け終わるまで途中で止めてはならない。どれだけ熱かろうと持つ手を変えてはならない。青年はその仕来りを心の中で呟く。冷えた頬を熱気がなでる。薄く微笑みながらセツエンは己の狩った肉を見つめる。汁がしたたり、旨そうな香りが辺りに広がっていく。
他の二人は山の神へ感謝を伝えるための唱え言を口にしている。山言葉を何も知らぬセツエンは先ほどの己の行いを思い返していた。カンムの背を追いかけた時、今まで感じたことのない力が体中に漲った。山の神が力を授けてくれたように思えた。深い感謝を伝えると共に、これからも狩りが上手くいくように彼は神へと願う。
その時、カンムは何をしていただろう。与えられた肉を食べもせず、まだ切り分けていない屍へゆるゆると歩き、鼻を近づけて臭いをかいだ。口をつけずに離れ、セツエンの後ろでじっと伏せる。
青年が振り返るとカンムはあくびをしていた。祟りが怖くないのだろうか、山で悪い目に遭わないだろうか、セツエンは不安になる。そうして、濁りのない心でカンムの無事を神に祈るのだった。
肉の表面が焼けた頃、突然の寒気に背筋が震え、セツエンは振り返る。カンムのまとう空気が変わっていた。雌犬は歯茎を露わにして荒々しく息を吐いている。斜面の上で何かが動くのを目にしたらしい。石を飛び越え、木々の間を抜け、坂を駆け登っていく。
「カンム！」
セツエンは立ち上がり、彼女を追おうとした。だが、その右手は炎から離れない。モンに左手を引かれて屈むように促される。仕来りを守るため、あと少し、もう少し動けない。この獲物は神が授けてくれたものだ。恩知らずに不敬な振る舞いをすべきではない。そんな考えに縛られている内にカンムの姿は山奥へと消えていた。
心配することはない。昨日は一匹で兎を狩ってきた。逃したら諦めて帰ってくるだろう。そう己に言い聞かせても不安はしぶとく生き残る。心を説得することを諦めて、彼は炎が強く燃えるようにとだけ願うのだった。