青い空の王様の物語
丘の上まで登ると、青い空がぐんと近くに見えました。ちょっと背伸びをすれば雲まで手が届きそうです。僕は後ろから登ってくるお父さんとお母さんに大きく手を振りました。
「お父さん、お母さん、早く、早く!」
今まで登ってきた道を振り返ると、国中をいっぺんに見ることができました。たくさんの家々に教会、市場に広場。明るい日の光を浴びて街が輝いています。
「うわぁ……」
僕は思わず声を上げました。
「綺麗な国だろう。そして幸せな国だ」
いつの間にか追いついていたお父さんが言いました。お弁当を持ったお母さんも一緒です。
「この国が幸せなのは、優しい王様の手に守られているからなんだよ」
「王様? この国に王様なんていないよ?」
僕はびっくりして、お父さんの顔を見上げました。この国に王様がいたのは僕が生まれるよりも前の話です。とてもとても悪い王様だったと、隣のお婆ちゃんが言っていました。
「そうだな、今はいない。王様は青い空に行ってしまったから……」
お父さんは澄んだ空のように青い目を遠くに向けて言いました。
お母さんが、すっとお父さんのそばに寄り添い、お父さんの右手を握りました。お父さんは視線を下げてお母さんのほうを見ると、にこやかに笑って、左手をお母さんの手に重ねました。
「優しい手をした王様の話を、お前に伝えておこう」
そう言って、お父さんは青い空のような王様の物語を始めました。
* * *
《1》
「ヒューイアス、ごめんね」
痩せ細った母が粗末なベッドから腕を伸ばし、ヒューイアスの頭を撫でました。
綺麗な金色だった髪はすっかり輝きを失い、ばら色だった肌は病人特有の灰色をしていました。
「お前はまだ小さいのに、母さんはお前を置いていかなければならないみたいだわ」
「母さん!」
ヒューイアスの目から涙がこぼれました。母がこの病気にかかってから、いつかはこの日が来るとは分かっていましたが、信じたくなんかありませんでした。
お金があれば薬を買うことができました。栄養のあるものを食べさせてあげることもできました。でも、そんなことができるのはお金持ちだけなのでした。
「全部、王様が悪いんだ。みんなが困っているのに自分ばっかり贅沢をして!」
ヒューイアスは悲しくて悔しくてなりません。
この国の玉座には悪い王様が座っています。
国民が飢えて苦しんでいるのに、王様は美味しいものばかり食べています。
国民がぼろを着て寒さで震えているのに、王様は豪華で綺麗な着物を着ています。
国民が隙間風の入る家で暮らしているのに、王様は大きくて立派なお城に住んでいます。
誰かがこの悪い王様をたおさなければ、国民は幸せになれないのです。
「母さん、俺が悪い王様をやっつける。だから、だから、それまで――」
死なないで、と言おうとして、その言葉のあまりの恐ろしさにヒューイアスは口をつぐみました。
そんな彼を見て、母は困ったような悲しそうな顔をしました。それから目を伏せ、静かに言いました。
「……戸棚の奥に秘密の地図があるの」
「秘密の地図?」
「昔、母さんがお城の召使いだった頃に貰った地図。お城の外から誰にも見つからずに王様の部屋に行ける秘密の地図」
ヒューイアスはびっくりしました。
お城はたくさんの兵士たちに守られていて、王様は一番奥に隠れています。でも、この地図さえあれば――。
「お前が大きくなったときに……もし、まだ王様をやっつけたいと思っていたら、地図に描いてある秘密の通路を使って王様に会いに行って」
母は伸ばした手でヒューイアスの手をぎゅっと握り締めました。病人とは思えないほど強い力でした。
「母さん……?」
どうしたんだろう、とヒューイアスが戸惑っていると、不意に彼を包む力がすっと抜けました。
母は息を引き取ったのでした。
母と二人暮らしだったヒューイアスは教会にある孤児院に行くことになりました。
孤児院には彼のように親をなくした子供がたくさんいました。みんな辛い思い出や悲しい思い出を持っていました。苦しみから誰ともお話しすることができなくなってしまった子や、飢えから体を悪くして病気ばかりする子もいました。
ヒューイアスは今すぐにでも秘密の地図を使って王様をたおしにいきたいと思いました。
けれど小さなヒューイアスの足では、お城にたどり着くことすらできないのでした。
ヒューイアスは早く大きくなりたいと思いました。
《2》
ある日のことです。
ヒューイアスたち孤児院の子供たちは、クッキーを作っていました。
このクッキーはみんなのおやつなんかではありません。街で売ってお金にするのです。
彼の隣にいるシルティアもまた、小さな手で一生懸命に生地を丸めていました。小さくてもシルティアは立派な働き手でした。もちろん、年上のヒューイアスは畑仕事もすれば家畜の世話だってします。
ふと、シルティアの手が止まりました。そして、可愛い丸い目をまっすぐに向けて、ヒューイアスに尋ねてきました。
「ヒューイ兄ちゃん、私のパパとママはどこにいるの?」
ヒューイアスは返事に困りました。「兄ちゃん」と呼ばれていますが、ヒューイアスだって、まだ十歳です。上手に嘘をつくことは簡単ではありません。
――そう、嘘をつかなければいけないと、ヒューイアスは思いました。
本当のことは、小さなシルティアにはあまりにも可哀想でした。
シルティアの両親が、赤ん坊だった彼女をこの孤児院に置き去りにして、どこかに消えてしまっただなんて、言っていいはずがありません。
「あー……」
ヒューイアスは困りました。
言葉を選びながら、手のひらの中のクッキーの生地を捏ね繰りまわします。
シルティアがどうして両親のことを訪ねたのか、ヒューイアスには心当たりがありました。
ついさっき、シスターのお使いで一緒に市場に行ったときに、彼女と同じくらいの年頃の女の子を見かけたのです。
その子は、貧しいようにも見えませんでしたが、特別にお金持ちにも見えませんでした。質素な服を着て、飾りひとつついていない紐で髪を結んでいました。けれど、女の子の右手には父親、左手には母親がいました。
親子で「せーの!」という掛け声を上げると、女の子は両親に持ち上げられてふわりと宙を舞い、遠くへと着地しました。「うわぁ、私、お空を飛んだよ!」と女の子は大はしゃぎでした。
ヒューイアスは羨ましくて辛くて悲しくて――先を急ごうとしました。見ていたくなかったのです。
しかし、右手を繋いだシルティアの足は止まったままでした。彼女はぎゅっと強くヒューイアスの手を握り締めました。少し湿った温かさが彼の心に氷のように突き刺さりました。彼女の左手には誰かの手ではなく、小さな買い物かごが握られていたのです。
黙り込んでしまったヒューイアスの顔を、シルティアは「兄ちゃん?」と覗き込みました。
「……天国だよ」
ヒューイアスはそう言うと、丸めた生地をばんばんと叩き、平らにして天板に並べました。それは隣のクッキーよりも明らかに大きく薄くなっていました。