純愛
雪言葉に埋もれて
軽井沢から碓氷峠を越えて前橋に帰る途中であったが、やはり渋滞が始まった。天気予報で雪になる事は知っていたが、ワイパーがまるで役に立たないほどの雪である。車が走り出すと雪は車のなかに入り込んでくるような勢いでフロントガラスにあたる。
宏は軽井沢在住の画家の作品の買い付けの帰りであった。最近名が知れ始めた女流画家である。福島優。57歳である。年齢からすると遅咲きであるが、彼女は絵を描き始めたのが遅かったのである。雪景色が主なテーマである。彼女の作品は雪景色でありながら感情の温かさを感じた。今回購入した作品は20号である。白樺の林のなかに古民家のある風景である。その家には灯りがともされている。
渋滞で停まっていると、対向車の運転手が大型車がスリップして道を塞いでいるから、戻った方がいいよと仲間のトラックに声をかけていた。宏はそれを聞き、ガソリンを確かめた。少ない事は解っていた。長野県より群馬県の方がガソリンが安いので、群馬に出たら入れるつもりであった。このまま渋滞に巻き込まれたら暖房をとるためのガソリンも無くなりそうである。
宏は福島優の家に戻ることにした。
「今晩は大雪になるそうですから、泊ってくださいな」
優は宏を引き止めた。その言葉に甘えれば良かったといまになって後悔した。
優は宏の妻である由美子の妹である。いわば宏の義理の妹になる。
軽井沢への道は何とか走れた。宏は携帯で連絡を入れた。
「だから言ったでしょう。遠慮なんかしないでって」
電話口の優の声は弾んでいるように聞こえた。
宏は義理の妹とは言え優は独身であるから泊る事は控えたのであった。
いつも止める駐車場に車を停めると、優がこうもり傘をさして出迎えてくれた。
1本の傘に入ってみると妙に宏は優を女と感じた。積もった雪の反射と優の家からの灯りがそう感じさせたのかもしれない。新しい絵に触れた様な感情の様でもあった。新鮮な驚きである。今までに何度となく見ている優なのに、美しさを感じてしまったのである。
「直ぐに食事の支度するわ。お風呂に入って」
宏は由美子との新婚の時を思い出した。
「優さん騒がせてごめんなさい」
「どうしたのよ」
「この近くの旅館に泊まる」
「水臭い事言わないでよ。ご飯無駄になるから」
「本当にごめんなさい」
宏は車に向かって走った。雪が顔にあたった。エンジンをかけると、優の声がしたが、宏は車を走らせた。
優の描いた20号の絵がことこと音を立てた。その音は宏には車の後を追う優の声に聴こえた。優が雪になって宏の顔に襲い掛かってくる。
優が今まで独身でいる事は宏の一言だったのかもしれない。
宏は優の家庭教師をしていた。その時宏は由美子と交際を始めたばかりであった。
「先生の事好きになってもいいかな」
「もちろんいいよ」
優は高校3年生であった。宏とは6歳も年が離れていた。大人と子供である。宏は冗談半分であった。
優のあの時の言葉がフロントガラスに積もり始めた。ワイパーでは払いきれない。次第に車全体を覆い尽くした。車は動いているのか停まっているのかも解らない。
少しづつ寒さを感じ始めた。『ガソリンが無いんだっけ』宏はかすかに働く思考のなかでそんな事を思った。
由美子の顔と優の顔は本当に似ていた。どちらが誰なのか宏にはもう解らない。美しいよ君たち。好きだよ君たち、2人。