純愛
百合の香り
3月10日は母の命日である。宏は仕事の合間を見て、墓参りに出かけた。花屋に立ち寄り、2000円ほど花を買った。車に戻ると、百合の香りが匂って来た。その香りのなかに母がいるように感じた。母のことを思い出す事も少なかった。墓参りの時ぐらいではないだろうかと、宏はつくづく感じた。
寺の駐車場に車を停め、水おけに水を入れ、坂道を登り始めた。誰もいない墓地は静かである。途中の墓に新しそうな花が供えられていた。宏は中段まで歩き、母の墓についた。御影石の石塔は埃で汚れていた。水をかけタオルで洗った。側面に彫られた母の名前に指が点字の様にツルのカタカナ文字を読ませた。
花たての水は茶色く汚れ、異臭がしていた。お盆の時以来の墓参りである。ステンレス製の花たてもくすんでいたが、タオルで磨くと光沢を戻した。
花を入れると、母に近付けた感じがした。風が強いので線香に火は点さない。いつもは元気ですとか家を守ってください。など話すのだが今日はただ手を合わせただけであった。
墓参りを済ませ、本堂にお参りをすると、調度寺の奥様が見えた。何度か顔は見たが、言葉を交わした事は無かった。
「お茶はいかがですか」
「ありがとうございます」
宏は素直に甘えた。庫裏に通された。
宏はお布施を迷っていた。茶に菓子などは無かった。
茶を飲みながら付け届けはしているのだから今日は良いだろうと考えた。
「どうぞ」
2杯目の茶を入れた。なぜか初めの時よりも美味く感じた。余計な穿鑿から逃れたからかもしれない。
奥様は控えめな方であった。余り話はしない。
「母の命日なんです」
「ご奇特なこと」
「お坊様は」
「仕事です」
その言葉の時に奥様の束ねた髪が解れた。
「ごめんなさい」
少し顔色が変わったように見えた。
[髪束ねて頂けますか?」
突然のことで宏は戸惑った。
「解りました」
返事をし、奥様の背中に向かって膝を立てた。
「蝶結びです」
リボンは鮮やかな緋色であった。黒髪からは椿の香りがした。
奥様の頭上に手をやるために、少し膝を立て直した。
U字のセーターから胸のふくらみがはっきりと見えた。
宏は奥様に色気を感じた。それは一瞬の事である。
「上手く結べませんが」
奥様は鏡を見る事も無く
「お手間を取らせました」
と言った。
寺は静かである。山から吹き下ろす風の音が聞こえるくらいなのだ。
奥様と2人だけの世界。宏は2杯目の茶も飲み終えていた。
40歳を少し超えた年なのだろう。
住職は3年前に交通事故に遭っている。噂ではあるが、男の機能は無くしたらしい。
宏は不謹慎な自分を恥じようとしたが、奥様から漂う色香からは逃れられなかった。
明かに奥様は誘っていると宏には感じられた。
死の世界に行けば、何もないのだろうか?
生きているからこそ、仏の傍にいるものであっても、欲望は有るのだろう。
衣は身を包むものではあるが、そのほころびから奥様の心も見えた気がした。
「お茶美味しかったです」
「お帰りになりますか」
車に戻ると、奥様はこちらにお辞儀をしていた。気高く見える。
百合の香りはまだ残っていた。母の想い出は無く、奥様が座っているように思えた。