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チューしてあげる

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 優位に立とうとしている虚勢も、ややもすると、ケイコがそこにいるというだけで、岩にたがねをこつこつと打ち込まれ、小さく砕かれていく石ころのようだった。そういえば、ぼくは、れき岩であった。そして、もしかしたら、ケイコは、ちゃんとぼくが虚勢を張っていることも、ひどく悔やんでいることも、知っているのかも知れない。ぼくがずるく掃除をさぼっているのを知っていて、腹を立てていたように、腹の中で、ほらみろ、と笑っているのかも知れない。以前ぼくが、ケイコを馬鹿に扱っていたのは、本当は、ケイコに敗けているのを、自分でも気付いていて、単に勉強や体育ができたという虚勢でしかなかったような気がしてきた。虚勢で演技していた。今演技しているように。ケイコがいるだけで、ぼくはコロコロ転がっている石ころのようだった。ケイコにけられる石けりの石、そんな気がして、ぼくは自分が悲しくなった。ケイコに足げにされて、ころころとぼくは転がっていく、そして、真っ黒に口を開いているマンホールにポトリとれき岩が落ちた。  ---ケイコごめんなさい。---と思った。不覚にも、ぼくは涙を一粒、机の上に落としたのだ。ケイコに気づかれまいと、あわてて親指で涙の粒をこすると、どっと涙が両目からあふれそうになり、いっきに教室の風景がにじんでしまった。

 とうとう、授業が終わり、終わりの会の時間になった。先生は教壇からドアの前にしりぞき、ぼくは委員長の仕事である議長を務めるべく教壇に上がった。
「これから、終わりの会をはじめます」いつもの二、三の女の子の手が挙がった。ぼくはその内の誰が言うのだろうか。先生を横目にうかがった。しかし、一段、高い所に立つと妙に覚悟も決まるのだ。挙がった手を、ぼくは順々に当てていった。男の子の誰々が道の真ん中を歩いていた。男の子の誰々がブランコを独り占めにして替わってくれなかった。女の子たちは教室の隅で聞いている先生に告げ口をするのである。言われたものはうつむいて、立ち上がり、ぼくはそのたびにその人に向かって、
「そう言う事をしてはいけませんね」と言った。彼らはニィッと笑って、頭をかいて、ペコリと頭を下げ、
「はい」と言った。その場をごまかして席に着くのだ。そう言う事をしてはいけませんね。自分のためには、どのように言って、ごまかそうか。ペコリと頭を下げて、笑うだけでは許されないだろう。問題は暴力なのだ。弱いオンナへの暴力とされるのだから、オンナたちが総勢で、ハチの巣をつついたように、ヒステリーに成るに決まっている。こんな重大な問題は今までに取り上げられたことなど終わりの会で一度もなかった。先生もオンナだ。その上、ぼくは壇上の議長だ。どうしよう、いつ来るか、いつ来るか、ぼくは青れき岩になって、待ち構えた。手が挙がっていないのである。教室を見渡すしぐさで、ケイコと先生を見た。誰も手を挙げなかったので、終わりの会をおしまいにしようと、
「もうありませんか」言ったとたん「はい」とケイコが手を挙げた。ぼくの声はうわずって、
「平井さん」と指さす手はブルブル震えた。
「うちな、六年になったら、他の所へ引っ越しするねん。ほかの学校へ転校するねん。ほかの学校へ行かなあかんねん。いややけど、仕方ないねん。」とケイコは言った。
「そうですね。平井さんは、おとうさんの仕事の都合で六年生からほかの学校へいきます」と先生が割って入った。教室に
「ええっ」と言う大きなどよめきがわき上がった。

帰り道、ぼくは、歩きながらすまない事をしたと、初めて後悔した。言い付けられなかったという安ど感が、より一層すまないことをしたと思わせた。うつむきながら、いつもの土塀の下を歩いていた。どうしてケイコは言い付けなかったのだろう。事件の事をお父さんとお母さんに話したら、「言い付けなさい」と言うに決まっている。「そんなずるいやつはひどい目にあわしてやりなさい」と言うに違いない。だれに聞いても「言い付けなさい」と言うだろう。どうしてケイコは言い付けなかったのだろう。言い付けるようなことは、しないほうがいいと、どうして思ったのだろう。あんなずるいぼくをどうして許してやろうと思ったのだろう。ケイコがぼくを許しているはずはないのに。ケイコはなぜ復讐をしないのだろう。ぼくはあだ名をつけられ、仕返しをしよう、いつかは、ケイコをたたいてやろうとねらっていたのに。
うつむいて地面を見ながら歩いていると、
「おい、れき岩」頭上からのケイコの声が突然聞こえた。ぼくはびっくりして、塀の上を振り仰いだ。いつもの松の木の上にケイコは腰を掛けていた。
「おい、れき岩、これあげるわ」
塀越しにケイコはボールを手渡すように柿をひとつ放り投げた。ぼくは両の手でそれを受け取った。
「ありがとう」と聞えないほどの小さな声で礼を言った。ペコリと頭を下げた。そして聞こえないほどの小さな声で
「きのうはごめん」とケイコに、ぼくはあやまった。聞こえただろうかと思いながら、背を向け、柿を両手に包んで、早足にその場をたち去ろうとした。逃げようとするぼくの背中に、空一面、ケイコの大きな声が響き渡った。
「れき岩、さようなら」ケイコのいる屋敷の方を、驚いて振り返ると、松の木に座っているケイコのむこうに、夕日が満開であった。

           3
五年生の修了式の当日、ケイコと一番仲の良かった同じクラスのオンナの委員長と、ケイコは廊下で立ち話をしていた。別れのことばと五年間の思い出を楽しそうにふたりで話していた。ケイコは近くにぼくがいるのに気付くと、五年三組のもう誰もいない教室を振り返りながら、
「ケイコな、大阪市内の学校に行くねん。五年生楽しかったわ。この間、れき岩に平手打ちで、なぐられてん。痛かったけど、言い付けてやると言ったら、隣の席で、れき岩、泣いとんねん、涙落として、机の涙、指でこすって、慌てて拭いとんねん。可哀そうになったから、言い付けるのやめたんや」そばにいるぼくに、わざと聞こえるように、ケイコはオンナ委員長に話した。横目にぼくを見てニヤッと笑って、それからぼくの方に振り向いて、
「中村くん、さようなら」と言った。くん付けでぼくの名前を呼んだ。
「さようなら」ぼくは、ケイコに聞こえる声で答えた。そして、ケイコの前を急いで通りすぎながら、
「さようなら、平井さん。ごめんなさい、 柿、食べたよ。」今度は、大きな声でさん付で名前を呼び、聞こえるようにはっきり言った。

       4
それから四十年、今日の新聞に府会議員の立候補者の履歴と主張の書かれた政見の広報が入っていた。平井 ケイコ。*****からの立候補。ケイコは前年亡くなったおとうさんの後を引き継いで立候補したのである。
ぼくはクラスで数人しか行くことのない名門高校に進んだ。そこでケイコと再会した。ケイコがどのようにして勉強ができるようになったか。どのようにしてうりざね顔の美人になったか。そして松の木によじ登り、チューしてもらうぼくたちの麗しい青春の話は次回にしよう。ただ一点、最後にケイコがきっと素晴らしい府会議員になることをお伝えしたい。
作品名:チューしてあげる 作家名:島中充