画-かく-
なぜなら、画内と画外の行き来自体がそれほど難しいものではないからだ。例えば入画許可が入力された国民カードを何らかの方法で入手すれば、画内に入り、また画外に出ることなどたやすいことだ。テロや犯罪を目的に画内に入ろうとする者たちにとってグリーンベルトの横断を強行することはリスクはあってもメリットなど何もないのだ。
10.疑念
商店への襲撃、略奪が中央政府に与えた衝撃は大きかった。戦後復興を終え、G7として先進国の仲間入りをして以降このような事件が日本で起こるとは夢にも思わなかった。まさに現政権の無為無策を象徴する出来事だった。現政権の、いや清貧の国日本にとっての恥辱であった。中央政府は急きょ全都道府県警の本部長を招集し、類似事件の防止と首謀者をはじめとする襲撃犯の逮捕を厳命した。
また、遅きに失したとはいえ国内の農畜産物の増産と水産資源の漁獲量の拡大に取り組み始めた。
類似事件の防止と襲撃犯の逮捕は容易なものではなかった。なぜなら、続発する襲撃は組織だったものではなく、どれも自然発生的なものだったからだ。組織的どころか首謀者がいなかった。
襲撃の際リーダーのように振舞っていた人物を捕えてみると、本人は一切商品に手を付けていなかったということが往々にしてあった。彼らは義憤に駆られ困窮する者たちの逃亡を手助けする役回りを演じていただけだった。中には、かつて地元の警察署長から表彰を受けた善良な市民の典型のような人物までいた。
政府は焦った。何度も都道県警本部長を呼びつけ激を飛ばした。巡回を増やし、襲撃の噂がある商店には警察官を配置した。困ったことに警察官の中には見て見ぬふりをする者まで現れた。県警本部の幹部や警察署長はともかく現場の警察官だって庶民だ。上司の命令には逆らえないが、庶民の生活が苦しいのは痛いほど分かる。いきおい現場の士気は上がらない。政府が檄を飛ばせば飛ばすほど、反感を買い、成果は得られなかった。
ところが、襲撃は程なくして終息した。
襲撃を受けた中小のスーパーのオーナーや商店の店主は商売の意欲を失い、商売に絶望して、あるものは廃業し、あるものは廃人同様になり、中には自ら死を選ぶ者さえ出始めた。
庶民はようやく気が付いた。自分たちが襲うべき敵は中小のスーパーや商店ではなく、庶民の生活など顧みない中央政府や中央官庁の役人であることに。役人も政治家も、景気動向が上向いてきたとか、消費者物価は横ばいで推移しているとか、失業率が改善したとか、物知り顔でしゃべっている。さも世の動向のすべてを詳細に承知しているかのように。とるべき対策、処方箋はすべて解っているかのように。
しかし、彼らは現実など見ていない。高い報酬を得て、東京の高級住宅地といわれる快適で安全な場所に自宅を構え、国会や永田町周辺の事務所や赤坂、築地、青山あたりの料亭、レストランと自宅の間を往復し、御用学者や役人が作るきれいな数字をただ眺めているだけだ。
怪しげな計算によって導き出されるきれいな数字、自分たちに都合の良いように細工された数字を眺めているだけなのだ。そしてその数字を拠り所にして明日の暮らしはきっと良くなる、もし明日がだめでも明後日はもっと良くなるから我慢しなさいと騙し続けてきたのだ。庶民が騙されるのも無理はない。明日が良くなると思えるような数字が並んでいたからだ。
庶民はようやく気が付いた。中央政府や中央官庁の連中は自分たちの暮らしのことなど何も考えていないということに。敵は彼らだ。
11.画内
電車はグリーンベルトを渡り切り、集合住宅群に分け入っていく。北立会川駅が見えてきた。静かに構内に入り、停車した。大きな駅だ。
ホームには思ったより多くの人が電車を待っていた。ドアが開いたが降りる人はいない。ベビーカーを押した3組の母子のグループ、若いカップルと学生風の男が乗ってきた。ブランドで着飾った母親たちはドア付近に立ったままで、画内にある有名私立大学の付属小中学校の話題に夢中になっている。赤ん坊が一人キャッキャと言い、母親がニコリと微笑み、また会話に戻る。何度かそれが繰り返される。残る2つのベビーカーからは声は聞こえてこない。
カップルはドアの脇に立ち、時々周りを見回し短い会話をする。二人ともダウンにジーンズというラフな服装だ。
カップルと同じような服装でバックパックを背負った学生風はつり革を持ちスマホを見つめている。
窓の外は春だ。外の空気にはまだ冷たさが残っているのだろうが明るい光が差し込む車内は少し汗ばむくらいだ。いくつかの駅に停まり、何人か降りたが乗ってくる方が多い。徐々に車内が混み合ってきた。ベビーカー3人組の居心地が悪そうになった頃に電車が品川駅に到着した。
改札口を出て、第一京浜に架かるペデストリアンデッキを渡り、パレスホテルに向かう。ホテルが集中しているエリアだけあって外国人旅行者の数が多いのは昔と同じだが、行きかう人の数が減ったように感じる。ペデストリアンデッキが整備され第一京浜を横断する信号待ちが無くなったためだろうか。
ペデストリアンデッキの整備に合わせて駅舎や駅前のショッピング街も建て替えられ随分歩きやすくなった。ただ、以前のように様々な国から来た人たちが大勢行き交い、混沌として活気あふれる独特の雰囲気は消え去り、画内の何処にでもあるよそ行きの顔をした駅前になってしまった。
12.農業
この頃になって中央政府はようやく気付いた。すべての国民が食料に不安を抱かなくて済むこと、つまり食料の自給率を高めておくことが国政の大本であるということに。
しかし、食料は工業製品ではない。工場の設備を増やせば事足りるというような単純な話しではない。一朝一夕に成果は上がらないのだ。
数十年間にわたって大量に輸入された安価な食料品が国内農家を疲弊させ、廃業に追い込み、農地を荒れ地に変えていた。田や畑を地道に耕し作物を育てても金にならないのだから無理もない。農家の息子たちはさっさと農業に見切りをつけてサラリーマンになった。親もそれを引きとめることはしなかった。
勿論、経営感覚を持った農家も一部にはいた。彼らは賃金の安い外国人の技能実習生を大量に雇用して収益性を確保しながら国内産であることを売りにして生産量を伸ばし、順調に業績を上げていった。彼らは日本の農業のリーダー、救世主として祭り上げられた。
最初のころ、実習生たちは雇い主から様々な技術を教わった。実習生なのだから当然だ。しかし経営規模を拡大し生産量が拡大すると販売する量も増やさなければならない。雇い主は作物を育てるよりも販売先を開拓し、販売量を拡大することに時間をついやすようになる。生産は実習生に任せて営業活動が本業になる。そして農業技術の研修は先輩実習生に任されるようになる。先輩の実習生が後輩の実習生を教えるのだ。いつの間にか日本の農業の担い手は外国人実習生に代わっていった。