画-かく-
「そうですね、ボラれた経験のある連中にしてみたらざまあ見ろと言うでしょうね。で、跡地の再開発計画ということになるんですけど、何しろ歌舞伎町はあのイメージですからオフィスビルを建てたってテナントが入ってくれるかどうか分からない。ということで、3種の金持ち年金グループを当てにしたマンションが次々と建てられましてね。今では歌舞伎町は健康老人たちの朝型の街になっちゃった。朝早くから公園でラジオ体操とか太極拳やってるし、昼間はウォーキングに犬の散歩。夜も8時頃までは結構賑やかですよ。ただ、年寄りは寝るのが早いから9時過ぎれば一気に静かになります。画内だから安全だし、都内のどこに行くにも便利だし、まさに年寄り天国ですよ」
「そういえばKPWの社長も山谷に住んでるって言ってたよ。今は北斗って町名らしいけど。昔なら山谷で暮らしてるなんて言ったら、借金踏み倒して身を潜めてるのかって思うよな」
「そうですよね、画が出来て一番変わったのは、歓楽街とか風俗の街とか山谷のようないわく因縁のある街でしょうね」
木場、浦安方面のお得意先を5社ほど回って新木場に戻ってきた。市川はどこの社に行っても人気者だった。良い人間関係を築いているようで一安心だ。
「今日で主なところは全部回れたと思います。お疲れ様でした。しばらく事務所でお休みになってください。このあと皆でタクシー分乗で門前仲町の居酒屋に行きますので」
12.捜査
MCが関与していることは判った。次は3人の実行犯を特定し逮捕することだ。そして、実行犯に犯行を指示した者、犯行に加担した者たちを一網打尽にしなければならない。
マンション内の防犯カメラに映っていた3人は、勿論目だし帽などかぶってはいなかった。ただ、3人とも帽子を深めにかぶり、メガネをかけひげを生やしていた。
この3人とはマンションの管理人が応接していた。電気設備の点検にはいつも3人のスタッフが来ていた。3人はいつも同じメンバーという訳ではなかったが、リーダーはいつも田畑という男だった。
しかし、この日は3人の中に田畑の姿はなかった。3人の中の一人が「田畑さんたちは別のオフィスビルで大きなメンテが入ってそちらに応援に行ってまして。今日の定期検査は我々3人でやることになりました。私、庄田と申します。ここは始めてですが、勿論免許は持ってますし、ビルは1年、マンションは3年の経験がありますので検査はしっかりやらせて頂きますので安心してください」と丁寧に挨拶してきた。
3人は電気設備会社の制服を着て、帽子をかぶっていた。庄田という男は愛想が良かったが、残る二人は不愛想だった。ちょっと嫌な感じがしたが、今時の若者らしいとも思った。ただ、その日がハロウィーン当日で、昼過ぎからは仮装した子供たちや若い母親の出入りが激しく、どうしてもそちらの方に気を取られてしまっていた。3人と接触したこの管理人は、爆発があったとき偶然1階詰所の奥で夜勤の管理人への伝言メモを整理していたため、爆発の被害には遭わず有毒ガスを少し吸っただけで済んだ。
帽子をかぶり、メガネをかけてひげを生やしているとはいえ、防犯カメラには顔が明瞭に映っていた。管理人の記憶もしっかりしていた。このため3人の似顔絵はかなり正確なものが描けた。また、庄田と名乗る男は、訛りのない標準語をしゃべり、外国語訛りなど全くなかったと管理人が証言した。残る二人についても管理人の印象は日本人に間違いないだろうというものだった。
3人は日本人である公算が大きい。また、今のところ国外に逃亡した形跡はなく、事件の後、首都高や都内の防犯カメラからも不審な車は察知できなかった。捜査当局は、犯人は多分首都圏、しかも犯行のあった港区からそう遠くないところに潜伏しているとみて、東京の都心部から23区及びその周辺に大規模な捜査を展開した。
また、MCに関連するサイトへのアクセス履歴などのデータが捜査当局に提供され、調査、分析が進められた。その結果、アクセス履歴が複数回あった200人弱が浮かび上がり、アクセスの頻度、職業、経歴、年齢等をもとに30人の人物が絞り込まれ、極秘裏に周辺への聞き込みや尾行、盗聴が行われた。
事件が発生して15日後、3人の身元が特定され、即時、逮捕状が請求され、治安に重大な影響を及ぼす者として特別指名手配された。
庄田と名乗っていた男の年齢は33歳、勿論本名ではなく、住所は杉並区内のアパートになっていた。アパートは田坂という偽名で借りていたが家賃の滞納などの問題は起こしておらず、隣近所とのトラブルもなかった。というよりも隣人は全て独身または単身の学生かサラリーマン、アルバイトなので日中顔を合わせること自体無かった。聞き込みをするにしても日中は誰もおらず、夜間でも反応のない部屋が多かった。
庄田と名乗った男は、東京23区内の新興下町で生まれた。子供の頃から成績は良く運動もできる活発な子供だった。しかし、小学6年生の時に父親を労災事故で亡くし、その影響で母親が情緒不安定になった。しかも、労災事故に対する十分な補償がされなかったため家計は相当苦しかったようだ。
それでもアルバイトをしながら都立高校を卒業して都内の国立大学に進学し、奨学金とアルバイトを糧に5年かけて無事卒業した。しかし、卒業したときに志望していた企業のどこからも内定の通知はもらえなかった。
やむなく塾の講師のアルバイトを続けながら就職活動を続けたが、事実上の門前払いを受けることが多く、いつの間にか塾の講師が正業のようになっていた。そして、30歳の誕生日に突然塾を辞め、語学留学を目的としてロンドンに渡った。そして半年前に帰国していた。
なお、ロンドン滞在中に、観光目的でヨルダンに3回渡航していたが、その間の行動については把握できていない。
残る二人のうちの一人は千葉県市川市で両親、妹と暮らす26歳のアルバイト、もう一人は埼玉県和光市在住の学生だった。市川市在住の男は、千葉県内の工業高校を卒業して一度県内の中小企業に就職したが3年後に会社が倒産した。その後は長期短期のアルバイトを転々としていた。目立ったところのない男で、職場でトラブルを起こしたこともなかった。辞めるときも特に理由は言わずにただ辞めさせてほしいと言って辞めていったそうだ。当時の同僚に聞いてもほとんど記憶がなく、一緒に働いていたことすら忘れている者もいた。
和光市在住の男は、福岡県出身で東武東上線沿線のアパートに一人で暮らしていた。東京都内の私立大学に籍を置いていたが、近ごろは殆ど大学には来ていないようだった。家は裕福な方ではなかったが、第一志望の大学に合格できたため、上京してすぐに住み込みのアルバイト先を見つけ、大学に通い始めた。演劇サークルに所属し、舞台の設営なども先輩の指示に従い真面目に取り組み、出番のほとんどない端役でも熱心に役作りに励んでいた。