画-かく-
将来に自信を持てない経営者は、正規の労働者が定年退職するとパートやアルバイト、契約社員、派遣社員などの非正規雇用に切り替えていった。正規社員として労働者を雇い入れ、労働者と力を合わせて困難を乗り越え会社を発展させていこうという気概や覚悟を持つ経営者は少数派だった。ただ、かりそめの好景気の影響で労働者が集まりにくくなると、仕方なく非正規労働者の賃金を少し引き上げた。
政府は「ほら見ろ。賃金が上がっただろう」と胸を張った。強欲な経営者たちは安堵した。政府から強く要請された賃上げの約束を一応は果たしたからだ。しかも雇用の調整弁は維持できた。困ればいつでも首が切れる。
大手企業にとって下請け業者も便利な存在だった。強欲な大手企業にとって下請けは従順な奴隷だ。「経済のグローバル化によってわが社は海外企業との間で厳しい競争を強いられている。残念だが発注先を安い海外に移さざるを得ない。国内にもお宅よりも安い価格で提供してくれる業者は他にいる」と脅せば文句を言う下請け業者などいない。いくら無理な要求をしても呑む。もし、文句を言うなら即刻取引を停止すればいい。それまでだ。こうして下請け業者もやせ細っていった。
5.画内居住権
電車はまだ入って来ない。閑散としていたホームも少しずつ人が増えてきた。ただ、皆行儀がいいのか静けさは変わらない。ここにいる人たちの大半が画内に暮らす人たちで、あとは私のように入画審査を受けて画内に入る旅行者だろう。画外に暮らす人たちはほとんどいない。いるとすれば入画許可を得ている人たちだ。
画内で暮らすことができる人たち、画内に入ることができる人たちとはどんな人たちなのだろうか?
入画審査場で「画内居住権」という表示があった。居住権は正しくは「産業等機能強化区画内居住権」と言うらしい。しかし、誰もそんな面倒な言葉なんて覚えてはいない。画内も付けずに「居住権」で十分通じるし、役所だって普通は居住権と言っている。
居住権は政府に申請すれば貰える。勿論、その人物が条件を満たせばの話だ。
申請すると一次審査がある。先ずその人物の経歴、懲役や禁固刑の有無、過去の渡航歴など細々とした項目がチェックされる。
次に、決定的な条件がある。1年間の収入と保有している資産の額だ。
以前は、年収が9百万円以上で純資産が3千万円以上の世帯主とその家族か、年収が3百万円以上で純資産が5千万円以上の世帯主とその家族であることが条件だった。後者の年収3百万円以上というのは年金世代を想定したものだ。私は、辛うじて9百万円以上に引っかかるとができた。
しかし、私が北海道に逃れる少し前から、治安の良い画内への転入を希望する人たちが急増したため、画内の人口過密を恐れた政府は、居住権を取得できる金額の下限を引き上げた。
具体的には、年収が1千3百万円以上で純資産が8千万円以上ある世帯主とその家族としたのだ。
それと同時に、私の様な引き上げ前の条件をギリギリ満たしていた階層は「2軍」扱いになった。
つまり、新しい条件を満たす人たちは自分たちが望む時に画内に居住することができるが、新しい条件を満たせなくなった私たちのような階層は年に数回行われる抽選に当たるか、新しい条件を満たしている人たち5人以上の推薦がなければ居住できなくなった。
このように居住権には3つの種別があり、新しい条件を満たす階層が1種、以前の私の様な階層が2種、年金世代の階層が3種という具合だ。
もうひとつ「入画許可」というのがある。
画内で暮らすことができるのは居住権を持つ人たちだけだ。しかし、1種から3種の人たちだけで都市は機能しない。そのため必要な労働力を画外から調達しなければならない。また、画内には大学などの文教施設が数多くあるから、画外から通学する人たちも多い。
このため、居住権のない画外の住民が通勤、通学などの目的で画内に入ることができるように「入画許可」、正確には「産業等機能強化区画内立入り許可」が与えられている。
入画許可は、勤務する会社や店が発行する勤務証明書や大学等が発行する在学証明書を添えて、地元の市役所に申請すれば取得できる。
入画許可を取得している人たちは居住権がないので種別もありえないが、画内でなくてはならない存在になっており、いつの間にか彼らのことを「4種」と呼ぶようになった。今では少し差別的なニュアンスを含みながら一般的な呼び名になっている。また、4種に対して、居住権を得て画内に住んでいる者は種別にかかわらず「インナー」と呼ばれている。
4種の者は原則画内に滞在することは認められていない。そのため、彼らは通勤や通学のために毎日画外から境界を越えて画内に入り、仕事や学校が終われば画外に帰っていく。
年収や資産が人を選別する社会。これが今の東京だ。いや今の日本だ。東京はその象徴に過ぎない。
6.デフォルト
2018年、ギリシャがついにデフォルトを起こした。債務不履行だ。2015年に一度デフォルトを起こしかけたが、ユーロ圏崩壊のきっかけになることを恐れる他の加盟国の思惑、地政学的な重要性とそこに足がかりを置きたいロシア、中国の影を巧みに利用して、一旦はその危機を乗り越えた。
EUはその後も、ギリシャの身勝手な要求を飲み財政支援を続けた。しかし、いくら支援を続けても、約束したはずの構造改革は後送りを繰り返すばかり、財政の健全化は一向に進まなかった。
財政支援の多くを負担してきたドイツやフランスの国民の不満は当然のこと高まる一方だ。自分たちは裕福な暮らしをしている訳ではない。毎日汗水たらして働いている。そんな自分たちの税金が、昼間からワインを飲み、優雅に日光浴を楽しむノー天気なギリシャ人たちを食わせているのだ。
ドイツやフランスで大規模なデモが頻発し始めた。地方政府、連邦政府やギリシャの大使館にデモ隊が押し掛ける事件も起こった。当然国政も混乱した。財政支援策を打ち切らなければEUどころか自国の秩序も守れなくなる。もうこれ以上ギリシャを支えることはできない。
そして2018年半ばにドイツが、その2週間後にフランスがギリシャへの財政支援の打ち切りを決断した。ギリシャのデフォルトが決まった瞬間だ。デフォルトの影響はギリシャ一国に留まらなかった。倒れたドミノがポルトガルを直撃する。デフォルトだ。その次はスペインか?スペインは何とかデフォルトを回避したが、一歩手前の状態であることに変わりはなかった。金融不安の暗雲は立ちどころに欧州全体を覆う。イタリアだって危ない。戦々恐々だ。
まず、ギリシャやポルトガルの国債を多く保有していた欧州の銀行が相次いで倒産した。そして欧州域内で銀行間の資金融通が滞り始め、その波は世界の銀行間に拡がっていった。世界的な信用収縮が始まった。
勿論問題は銀行だけではない。ドイツやフランスなどEUの主要国はギリシャやポルトガル向けの債権が焦げ付いた。スペイン向けの債権も多くを放棄せざるを得なくなった。綱渡りを続けてきた欧州各国の財政が一気に大幅赤字に転落した。そして欧州経済は長く暗いトンネルに入った。