画-かく-
「上村君て偉いんですよ。アルバイトで稼ぎながら川崎の専門学校に通ってるんです。今夜も本当は仕事があったんですけど、今日は学校もアルバイトも休んだんです」
「どんな関係の専門学校行ってるの?」
「福祉です。僕お婆ちゃん子で。離婚しておふくろが働かなきゃいけなかったんで、妹がいるんですけど僕たち二人はお婆ちゃんに育てられたみたいなもんです。だから、年寄を相手するのが上手くて。年寄嫌いじゃないし。福祉なら働き口に困ることもないだろうなって。でも、妹がまだ高校に通ってるんで、おふくろに苦労かけられないから自分で稼げるだけは稼ごうかなって」
「偉いな。若者の鑑だ。年取ったら面倒見てくれ」胸が詰まりそうになる。
「はい喜んで」
「しかし、こんないい青年を大事にしなくてどうする。政府はなにをやってるんだ。おい矢崎お前何とかしろ政府の端くれだろう!!」酔いが回ってきたのかな?
「おいおい。そりゃ俺じゃなく福祉省に言えよ。酔っ払ったのか芳野、分からんでもないが。そういえば最近、若い人が政治のこと話すことってないよな。昔は若い人が政治のことを語り合う番組があったがそんな番組もなくなったよな。ところで君たちは選挙権あったんだっけ?」
6.参議
思いも寄らない参議院の抵抗を受けたが、政府、与党の方針が無論変わるはずはない。思わず拍手をしてしまった議員のうち衆議院に鞍替えを予定していた者たちは翌日幹事長に連れられ与党総裁室を訪れ、平身低頭詫びを入れた。勿論、長田からは厳しい叱責を受け続けた。中には土下座をして涙を流す者さえいた。
長田の怒りはそう長くは続かなかった。最後には長田も彼らに労いの声を掛けた。未来永劫彼らが長田に弓を引くことはないことを確信したからだ。
木下の反対討論で参議院が一致結束するかに見えたが、逆に木下の討論で溜飲が下がったのか参議院は一気にガスが抜けてしまい、その後の審議は順調に進んだ。
野党議員の中にも衆議院に鞍替えを狙っている者がいたし、ここで無理に抵抗するよりも潔く身を引き、衆議院選挙で弔い合戦に臨む方が得策だと考えた。
また、一院化、すなわち参議院廃止に伴う現職議員に対する処遇が思いのほか手厚いものであったことも反対が盛り上がらなかった理由だ。
一院化するにあたって最も重要なことは、一院化によって国民の意思すなわち民意の反映に支障が出ないよう最大限配慮することだ。院が一つになるということは民意を伝える機会が半分になるからだ。
そこで二つの対応策が採られた。一つは衆議院の定数を増やすことだ。これにより民意をよりきめ細かく反映できることとされた。
もう一つの対応策は参議院議員に政治に参画できる権利を与えることだ。それは、参議院議員は国民の投票で選ばれた者たちであり、民意を背負った者たちだからだ。
この裏には失職を余儀なくされる参議院議員の処遇にできる限り配慮する狙いがあったことは当然だ。
議員定数の50増については、当初、野党が100にすべきであると主張したが、何のための国会改革かと国民の失笑を買い、すぐに取り下げた。なお、定数を50増やすことに伴う選挙区割りについては、別途、公職選挙法及び衆議院議員選挙区画定審議会設置法を一部改正することで対応することとされた。
次に、参議院議員の政治への参画だが、参議院の廃止に伴い「参議制度」を創設することとされた。
具体的には、参議院廃止時点で参議院議員であった者は「参議」になることができることとした。参議は、自ら辞職を申し出ない限り終生参議職を務めることができることとした。また、参議院議員会館は参議会館となり、参議は以前の部屋を無償で利用できることとされた。
参議には、「国政参画費」として、従前の議員報酬の半額が支給され、「国政調査費」として一律に月額で20万円が支給された。
また、参議には特別に「法案提出権」が与えられた。これで多くの参議院議員は不承不承納得した。
では、実際のところ参議はどのような活動をするのか?最大の出番は4月と12月に開かれる「参議会」だ。この場で、内閣から国政報告が行われ、参議から意見、提言を述べることになる。また、法案の提出は何時でも可能であるが、参議会の場に提出することが推奨された。なお、4月は新年度予算の説明、12月は翌年度の主要施策と予算案の説明が主要議題であった。
しかし、4月時点では予算はすでに決定されたものであり、12月時点で予算案を説明されても実際のところ修正する余地は残されていない。そのため、型どおり国政報告が行われ、これに対して応援演説をするか意味のない反対を表明するだけだった。このため、初めのうちは総理大臣以下すべての閣僚が出席して国政報告が行われたが、徐々に総理大臣が出席することはなくなり、官房長官と各省の副大臣が出席するようになった。
また、参議には、参議の権威を損なわないことを条件に兼職が認められていた。兼務できる職業には都道府県知事や市町村長も含まれていた。このため、衆議院を目指さない40代、50代の議員の多くが首長選に出馬し、参議院が廃止されて5年を経過した時点で43名の参議が首長を兼務していた。ただ、実態は、首長が参議を兼務していたと言う方が正確だろう。
このほかにも参議たちは宮中晩餐会や諸外国の元首を交えたレセプションにも招待された。一院化によって議席を失う参議院議員たちにはこのように手厚い救済措置がとられたため、大きな混乱もなく一院化に関する法案が参議院を通過したのである。
なお、参議院廃止に最後まで抵抗した木下をはじめとする10人は「議会制民主主義は死んだ」との言葉を残して参議院を去り、参議に就くこともしなかった。また、長期間入院し3年間議員として活動した実績のなかった1名も参議になることを辞退した。
一方、11名を除く231名の参議院議員は全て参議になった。また、2022年の参議院議員選挙で参議院の廃止を訴えて当選した議員が15名いたが、全員が「参議院の廃止を勝ち取った」と胸を張ってそのまま参議に収まり、国民の失笑を買った。
また、231名のうち125名は、一度は参議になったものの、次の総選挙に出馬して衆議院議員になり、参議職を返上した。
参議の特権として認められた法案提出権とはどのようなものだったのだろう?
参議が提出できる法案には制限があった。すなわち、憲法の改正及び憲法に抵触するものは認められなかった。また、民法、刑法など憲法以外の6法に関連するものも事実上認められなかった。要するに提出できる法案は特別法に限られていた。これは唯一の立法機関である国会の役割と参議の役割を峻別する必要があったからである。
また、提出を予定する法案は、事前に、「法案審査委員会」で審査を受けることとされていた。委員会は8名の法学者と2名の官僚OBで構成されていたが、政府からは独立した中立的な機関であった。
また、委員会が審査する項目は法律によって厳格に規定されており、基本的に法案の目的、内容に関しては審査の対象としてはならないとされていた。