画-かく-
「なかなか楽しそうな仕事してるじゃない。東京なんかよりよっぽど暮らしやすそうだしな」と矢崎がうらやましそうに言った後で聞いてきた。「で、参考までに聞くが給料はいくらくらい貰ってんの?」
「年によって違うけど大体800万円くらいかな。一応専務取締役だから給料じゃなく役員報酬だけどね。社長からはもっと取っていいと言われるけど、社有林の林道整備の経費を捻出するのに無理を聞いて貰ってるし、オーベルジュの投資もあるから、しばらくは締めていきましょうと言ってるんだ」
「えらく殊勝だな。雇われ重役のくせして」と神村が茶化す。
「仕事が面白くて苦労は無いし、借金も無い。物価が安いからこれで十分だ。住宅販売が軌道に乗ったらしっかりもらいますよと社内で宣言している」
「欲のない奴だな。でも800万円だと居住権は返上か。もう東京で暮らすことがないから関係ないか。そういえば芳野は都内にマンションを持ってたんじゃなかったか?あれはどうした?」と神村。
「よく覚えてるな。あれは2年前に売った。それから、居住権なんだけど、まだ継続して持ってるんだ。というのはね、例のマンションは10年前にうん千万円で買ったんだけど、これが画内の不動産価格が高騰したお陰で8千万円近くで売れたんだ。で、ローンの残額が3千5百万円くらいあったのを全て返済してね、それで退職金が2千5百万円くらい出たんで、旭川で暮らす準備に幾らか使ったけど、結局手元に7千万円近く残った。そしたら、2種の居住権は失ったけど、リタイア組の3種の基準に適合するようになった」
「じゃあ、その年にして小金持ちの年金オヤジだ」
「まあね。もう画内に住むことはないから関係ないけど、出張なんかで東京にくるとき一々入画許可を取らなくて済むから便利だよ」
4.逆襲
長い夏休みで準備万端整えた長田は意気揚々と臨時国会に臨んだ。
「世界に誇る平和憲法に手を付けることは日本の信頼を損なう」「国政選挙は民主主義の根本だ。その根本をないがしろにする暴挙だ」「1票の効力に差を設けるのは国民の権利の平等に反するものだ」「国会は株主総会ではない」「2院があるから、仮に1院で間違った判断を下しても残る1院がこれを是正することができる」「幅広い国民の意思を国会に届けられなくなる」「先進国として1院では恥ずかしい」質問は予想通りのものばかりだった。かすり傷さえ負わない。長田は自信に満ちた顔で身振り手振りを交え質問者たちにレクチャーを続けた。
国民の圧倒的な支持を追い風に、粛々と審議日程が消化され9月末には憲法改正案と国会改革関連法案が衆議院を通過し、参議院に送られた。
一院化に限れば衆議院は所詮他人事だ。しかし、参議院はそうはいかない。自分たちが席を置く伝統ある院を廃止する法案を審議しなければならない。まさに屈辱の日々だ。しかし、国民の多くが参議院の廃止を支持していることは明らかだった。既に勝負は着いていた。ここで下手に反対しても「口ではえらそうなことを言っているが、要するに政治家というおいしい仕事を失いたくないだけだろう」と勘繰られるのが落ちだ。
それだけではない。与党の参議院議員のうち約半数の者は次の職場として衆議院議員の席が一応は用意されていた。つまり、次の総選挙で立候補する予定の選挙区が内々に決まっていたのだ。勿論、選挙の洗礼は受けなければならないが、今の与党の支持率なら、余程のことがない限り当選することは確実だ。ここで、下手に長田総裁の機嫌を損ねるようなことをしたら元も子もない。ここは神妙にしておいた方が得策だ。
敗北ムードがただよう中で、気を吐く者たちはいた。与野党を問わず一院化によって議席を追われることが確実な古参の議員たちだ。
「良識の府、再考の府である参議院に身を置くものとして今般の国会の大改悪に断固反対する。納税額比例選挙制度にしても国会の一院化にしても、民主主義の何たるかに思いを致そうとしない、拝金主義に陥った薄っぺらな政治家たちの軽挙妄動であると断言する。このような法律が成立してしまったら民主主義の根本である国民の権利の平等が失われてしまう。貧乏人は2割の権利しかないのか。2割の価値しかないのか。金を持っている者だけがまともな人間として扱われて良いのか。我々は票の効力だけを指摘しているのではない。長田総理!あなたは人間の価値を金で測ろうとしているのだ。このような人間の尊厳に泥を塗りつけるような発想がどこから生まれたのか。あなたは恥ずかしくないのか」野党の議員ではない。与党のご意見番と言われている木下参議院議員だった。
野党席から「そのとおりだ」「いいぞ」のヤジが飛び、議場に拍手が渦巻いた。与党席でも数人が思わず拍手をしてしまい気まずそうにうつむいた。木下の舌鋒は鋭い。これまで自信満々に答弁を続けてきた長田総理も神妙な顔つきになった。
「次に、参議院の廃止の問題である。参議院がこれまで十分な役割を果たしてきたかと問われれば内心忸怩たるものはある。そこは素直に反省しなければなるまい。第二院である参議院は大所高所から国政を考え、第一院である衆議院の決定を正さなければならない。しかし、幸か不幸かこれまでは若干の行き過ぎはあったにしても衆議院の決定にあえて異議を唱える事態が起きなかったのだ。ところが、この度衆議院が決定した法案はどうか。これに対しては、参議院は明確にノーと言わなければならない。勿論、議員の身分が惜しいから反対するのではない。この法案は国民の意思をないがしろにするものであるからだ。参議院が廃止されれば我々参議院議員は身分を失う。それは、我々に投票してくれた数多くの国民の意思を全て消し去ることになるのだ。私は、参議院の使命、すなわち衆議院の暴走を食い止め、慎重な議論を促すという本来の使命を今こそ痛感している」一呼吸おいて、天井をにらみ、その後正面を見据えて続ける。
「ここはひとまず衆議院の決定を白紙に戻し、改めて一院化が真に日本国民にとって有益なものであるか否かについて慎重に議論頂きたい。その上でなお一院化が望ましいという結論が出されれば、我々は潔くその法案を審議しよう。しかしながら、今般の衆議院の決定はあまりにも拙速である。再度申し上げる。私は国会の一院化と納税額比例選挙制度に断固反対である。他の議員諸君のご賛同をお願いしたい」木下が長田総理をにらみつけて締めくくった。同時に「そのとおりだ」「民主主義を殺すな」というヤジが飛び、委員会室内に拍手が沸き起こった。与党席の大半の議員も拍手していた。衆議院の議席が約束されているとはいえ、また、影が薄いとはいえ、これまで所属していた参議院には愛着があったし、これを短期間の議論で廃止してしまおうとする与党執行部に対する憤懣が思わす噴出してしまった瞬間だった。長田総理の顔面は蒼白になった。
5.密入画
ドアが開いて若者が二人入ってきた。二人とも下はジーンズで上は一人がダウンジャケット、もう一人がフリースだ。ダウンジャケットがマスターにぺこりと頭を下げ、カウンターを見やり、テーブル席の方を見た。そのあとフリースにカウンターの席を指さし、こちらの方に歩いてきた。