画-かく-
神村が女将を呼ぶ間もなく障子が開きお盆にビールを乗せて女将が入ってきた。「さすが読みがいいね」と神村が言うと「取りあえずはビールでしょう」と女将が応え、矢崎にビールを注ぎ奥に戻っていった。
矢崎は、同期の出世頭で現在森林局の筆頭課長を務めている。同期の間では神村か矢崎のどちらかが森林局長になるというのが共通の認識だったが、神村が早々に退職したため矢崎が順調に出世の階段を昇っている。私の同期は役人の世界には珍しく仲が良い。皆それぞれ個性的で、自分の役回りを全うすることには熱心だが、出世欲がない。
そもそも局長というのは面倒なだけのポジションで誰もえらいとは思っていない。能力と体力がそこそこあって運の悪いのが局長になると思っている。だから神村と矢崎にしても本来なら局長候補のライバルになるのだろうが昔から親しく付き合っている。
「矢崎さん、今日のPTは何があったの?」と神村が聞く。
「森林買収。以前から問題になってる外国企業とか外国人による森林買収問題だよ。最近は景気が良くて土地の値段が上がってるから、以前ほど買いあさられることはなくなったけど、それでも一年に20件ほどはあるしね。PTは現行の法規制では甘すぎるから法律改正すべきというスタンスなんだ。ただ、中には自分の息のかかった企業が持ってる二束三文の山林を政府に高値で買い取らせようとたくらんでいる先生もいてね。それで怪しい外国企業が買収を進めているから早く政府で何とかしろと騒いでいるというのも中にはある。どっちがハイエナか判らん」と矢崎が嘆く。
「なるほど。でも、分からんでもないな。山奥で外国人の姿を見ることがたまにある。リゾート地ならまだしも、何もなさそうなところで見かけるんだ。日本人は山を見捨ててどんどん山から出て行って、代わりに外国人が山に入っていく。確かに不気味ではある。で、今日は何で長引いたんだ?」
「今日はね、中国地方に高台山ってあるだろう。あの高台山の山麓で去年から中国系企業が100ヘクタールほどの森林買収を進めていてね。これで大騒動だ。先週、局長が桧山先生から呼び付けられてね「自衛軍の演習場の隣接地を勝手に中国企業に買わせて良いのか。森林局は何処を見てるんだ」と怒鳴られたんだ。
それで、調べてみたら買収は別荘地の多い南麓側で、演習場がある北麓側とは全然関係がない。土地買収の目的は主に中国人富裕層をターゲットにしたリゾート開発で、少なくとも怪しい事案じゃなかった。勿論、水源地の問題とか、希少動植物の有無のとか、開発の手続きなんかはしっかりウォッチしておかないといけないけど、自衛軍とは全然関係ない。ということをご説明申し上げた」
「で、一件落着したんじゃないのか?」
「それが、そうはいかないんだ。一度拳を振り上げたら簡単に下ろせないだろう、あの人たちは。今の技術なら南麓でも北麓でも同じだ。リゾート開発というのはカモフラージュかもしれない。トンネルだって掘れるだろう。なんて滅茶苦茶なことを言い出してね。さすがに回りの先生方もあきれ顔だったよ」
「そりゃ大変だ」
「でもな、ある意味仕方がない面もあるんだ。桧山先生にしたら中国地方選出と言ったって東京生まれの東京育ちのボンだからな。子供の頃に夏休みの時だけお爺ちゃんの家に4日か5日遊びに行ったくらいで地元に住んだことなんて一度もないらしい。今は選挙の時しか帰らない。だから地元のことなんてほとんど知らないし、土地勘なんてあるはずがない。全部地元の秘書任せだ」
「よくある話しだな」
「で、今度のことだってリゾート開発に関連する土地買収で、欲をかいて中国企業に売り損なった連中が先生のところにガセネタをご注進したという訳だ。でも先生はそんな事情は知る由もないから局長を呼びつけてこの顛末だ」
「しかし先生には納得してもらうしかないよな。何とかして」
「そう。で、先生のご懸念はごもっともでございます。こちらの危機管理が甘うございました。今後このようなことのないよう状況把握に万全を期して参ります。また、本件につきましても国防省と然るべく連携し、監視を強化することといたします。今後ともご指導をよろしくお願いしますと平身低頭して何とか許してもらった。最後に先生から、こちらも怒って悪かった、局長によろしく伝えてくれと労らわれたよ。局に戻ってから一応国防省の担当課長に電話して事の経過を説明しておいた。手数をお掛けしました、何かあれば然るべく対応しますと笑ってたよ」
「やれやれ、お疲れ様」
「俺だって外国人が日本の森を買いあさることに良い気はしないさ。でも外国人富裕層の旅行者誘致の号令を掛けておいて、つまらんガセネタで大騒ぎだ。政治家の連中はこの国の現状を何も解っちゃいないし、この国の将来のことなんか何も考えちゃいない。今の好景気が続けばそれで良い。GDPがどんどん増えてくれれば良い。そうすれば国民は満足だし、自分たちの身も安泰という訳だ」
「そんなことで良いのかね」
「自分たちは画という安息の地に身を置いて、役人が用意した絵に描いたような国民の暮らしぶりとか希望に満ちた市井の営みの動画を見て、都合のいいように調整した経済指標を眺めてこの国の運営はうまく行っていると錯覚しているだけさ。要するにバーチャルな世界に身を置いてバーチャルな政策をしているだけなんだ。彼らは政治家という稼業を親から受け継いで、子供の頃から大事に育ててくれた家臣のような取り巻きに囲まれて江戸屋敷でお殿さま同様の暮らしをしてるだけだ。政治に関心を持たない国民も悪いには悪いが、それを良いことに気楽なもんだ」いつも強気で如才のない矢崎がひとしきり政治家の悪口を言って大きなため息をついた。
12.圧勝
2023年6月に衆議院が解散し、総選挙に突入した。選挙日程は6月27日公示、7月9日投票日と決まった。解散後も株価は上がり続けた。久しぶりに訪れた満開の春の恩恵をいち早く手にした人たち、春の温もりを感じ始めた人たちだけでなく、恩恵にほど遠い人たちまでもが何となく明るい顔つきになっていた。景気回復に中央政府、与党が関与した形跡はみじんもなかったが、政府、与党がいろいろな場で、様々な形で自分たちの功績であると喧伝した。国民にしてみれば政府が関与しようがしまいが、与党が関与しようがしまいが関係ない。景気が良くなることは大歓迎だ。いつの間にかこの景気回復は政府、与党が頑張ってくれたお蔭だと多くの国民が思い始めていた。
国会改革のうち納税額比例選挙制度は金持ちを優遇するようで、初めのうちは国民の多くが抵抗感を持った。しかし、そもそも選挙権自体、国民が血を流して勝ち取った権利ではない。進駐軍と時の政府から与えられたものだ。そんな歴史があるから国民の権利意識は薄かった。
また、一票の格差にしても以前からあったことだ。また、格差があったからといって何か実害があったのかと言えば思いつくようなものは何もない。