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大坂暮らし日月抄

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 晴之丞は、青物市場での荷担ぎの仕事を終えるのが、ここしばらく早くなっている。午の刻には、手持無沙汰でぶらぶらしている。仕事上不手際があったせいではなく、季節的に、野菜の入荷が少なくなっていることによる。無論労賃が少なくなり、かといって同居しているとはいえ、小雪の稼ぎを当てにすることはしたくない。
 早く帰って、長屋連中の誰かに見られるのもみじめな気分になるので、毎日町中を歩き回って、早く大坂に馴染もうと努めている。
 午飯を抜く日も増え、次の仕事を検討せねばならないな、と考え事をしながら天神橋を渡っていると、中ほどに、暗い雰囲気を漂わせている知った顔の老人が立っている。同じ長屋の突きあたりで一人暮らしをしている徳平こと、徳さんだ。鋳掛屋をしているとか、していたとか。
 通り過ぎてから気がかりなものを感じて振り返ると、立ち姿に変化がなく、体を硬直させたまま川面を覗き込んでいる。落し物でもしたのかと欄干から見下ろすと、雑木も地面もなく、流れの速い大川の水が橋の杭に当たって逆巻いている。
 徳さんは、欄干に両手をついて上体を乗り出した。驚いた晴之丞は走り寄って、徳さんの体を支えた。
「待ってくれ。どうしたというのだ」
 振り返った徳さんの顔は、あふれる涙でくちゃくちゃとなり、口元をわななかせている。
「死なせてくれェ〜ッ」
 喉から絞りだし、晴之丞の手を振り払って、欄干に足を掛けた。
 徳さんの腰を思いっきり引っ張って欄干から引き剥がすと、頬を平手打ちにした。何事かと視線を送りながらも避けるようにして、何人もの人が通り過ぎていく。
 地面に這いつくばってむせび泣く徳さんを、黙って見下ろしていた。


 あったかい食べ物が恋しい季節である。ほんわりと柔らかい湯気がたち上がっている素うどんをすすり終えると、何はともあれ、幸せ気分が満ちてくる。鼻水を拭きながら、徳さんの食べ終わるのを待った。
 徳さんはずっと無言である。黙ったまま手を合わせ箸を取ると、はさみ上げた少量の麺を冷ましながらゆっくりと口に運んでは、熱い汁に口をつけて胃の腑に落としこんでいる。鼻水をすすり上げながらようやく最後の一滴までを飲み干すと、初めて口をきいた。
「ごっそさんでございました」
 続かない。
 人生経験の乏しい晴之丞。どうしたら良いかと思案しながら、やはり黙っていた。食事時は過ぎているので、店内は閑散としている。手伝いの娘がぼんやりと椅子に腰かけているが、調理場から店主が様子を窺っている。こんな時間に男がふたり、こそこそしていると不審に思われても到し方ない。
 わざと、大きな声を出した。
「徳さん、さぁ元気出して。うどんで腹膨らんだら、気分も大きくなったであろう」
「へぇ、おおきにさんで」
 到し方ないから店を出た。長屋に向かって歩いていると、後ろを歩く徳さんが、ぽつ、ぽつと、喋りだした。
 要約すると、次のような話である。

 徳さんの10歳になる孫娘が病を得て、目を悪くした。読本の文字を目のすぐ近く、五寸程度まで近づけてやっと読めるのだという。
 ひと月ほど前に、福島にある上ノ天神さんの鳥居の前で、今話題の豊田貢(とよだみつぐ)という祈祷師の神通力を見て、投宿先を聞き出した。
 天王寺村に住む孫娘を連れて御祈祷をお願いに訪問すると、三両要求された。日銭稼ぎの身に蓄えはなく、仕事道具を肩に高利貸しから借り受けたのだが、目は一向に良くならない。
 祈祷師からは、「目の病は一回きりの祈祷だけではよくならないのが常のこと」と言われ、藁にすがる思いで再度孫娘を伴って御祈祷に伺って、さらに三両。
 仕事に精出しても、利子が大きいだけに借金は膨らむ一方。ついに肝心の仕事道具を取り上げられると、もうどうしようもない。
 高利貸しからは、「孫娘の働き口を紹介する」と言われた。つまりお女郎のこと。
 金を返すあてはなく、仕事も出来ず、米を買うことすらできない。孫のお道に、娘にも、顔向けできない。
「こうなったらこの体、水神様に捧げるしか方策はないのです」

 晴之丞は懐をまさぐった。今日受け取った一朱銀に指が触れた。
「これで四、五日は凌げるであろう。なぁに心配はいらん。都合の良い時に返してくれればよい」
 武士は食わねど高楊枝、などとのたまったのは誰だろう。
 徳平と別れると、口入屋に足を向けた。
作品名:大坂暮らし日月抄 作家名:健忘真実