大坂暮らし日月抄
「これはこれは、確か、栗尾様、でしたね」
薄暗い帳場の格子内に置かれた信楽焼の狸が、愛想よく迎えた。やはり、狸としか見えない店主の九兵衛。
「天満市場での評判、聞き及んでおります。真面目でよく働き、面倒見もなかなかにおよろしぃようで。今日は何か?」
「そのぅ、だな。もっとぉ割のいい仕事はないか、と思ってだな」
「何か不都合でも、ござりましたんでしょうか」
「ここんとこ仕事が少なくて、懐が寂しい」
「それはぁ仕方のないこと。ちょうど今の時節は端境期でっさかい。師走に入ったら目がまわるほどになりますよって、今のうちに英気を養われといたらよろしいねん」
「いや、な。ちょっとした人助けもあって、金は多いほどよいのだが」
「誰でも実入りは、多いほどよろしいがな。何かお困りごと? ご相談やったら承りますけど」
晴之丞は躊躇したが、適当な相談相手がいない。昔なら、平野晋作を頼っていたのだが。
「知り合いが、御祈祷を受ける為に高利貸しから借りてだなぁ、ご利益はなし、借金だけが残って、稼ぎの道も閉ざされてしまったんだなぁ、それでそのぅ」
上目で睨みつけた九兵衛が言った。
「なんとまぁ、人の良い。ほっといたらよろしいねん、そんなん。金槌の川流れ、でっせ。一生浮かばれません」
晴之丞の表情に変化がないと見ると、口調を変えた。。
「ほっとけんお人のようでんなぁ・・・ほしたら、お教えしますけど」
浮かばれない顔をしている晴之丞に対して九兵衛、ニヤッとした。
「その祈祷師、豊田貢、ゆうんとちゃいますか」
「九兵衛も、祈祷してもらったのか?」
「ここにはいろんンな人が出入りしてますんで、いろんンな情報も入ってきますねん。如何様祈祷師のこともね」
「如何様? と申すか」
「まだご存知ない? 数日前のことですけどね、その豊田貢の一行が捕らえられた」
「へっ?」
「まだ、お調べ中ですけどね。お奉行所の同心の旦那から聞いたんですよ。東組の与力様の御指示で、探索されてたんです。大勢の人が集まったところで初めに御祈祷を受けるんは、いつも同じ人物であることを突きとめたんですな。しかも、芝居してた。つまり、さくら、でんな」
「さくら、か」
「同じ仲間です。豊田貢という女、土御門家に仕える陰陽師で、水野軍記というお方からご禁制の耶蘇教を教わって、妙な呪文を唱えてたそうで」
「金子をむしり取られた者は、多かったのであろうなぁ」
「私の知り合いにも何人か。でもね、奉行所に届け出れば、いくらかは戻ってくるそうでございますよ」
そこまで聞いた途端店を飛び出し、徳さんに早く知らせねばと、源兵衛裏長屋へ走った。
その事件の結末であるが、関わっていた者は市中引き回しの上、磔、あるいはさらし首の刑が実行された。ほとんどの者は獄中死していたので、塩漬けにしていた死体を、裁きが下ってから磔、さらし首にしていたのである。
この当時は、非衛生な牢獄と厳しい拷問で、1年以内に死んでしまうのが普通であった。
文政十年(1827年)の邪宗門事件である。