大坂暮らし日月抄
作事所での仕事を終えて、敷地内外れの裏御門近くに建つ長屋に帰った。
藩の役人が住む長屋は、十軒ずつが向かい合って並んでいる。今は空き家が多い。六畳が二室と土間の造りである。源兵衛裏長屋は一室に土間があるだけだったので、ひとりで住む分ゆとりがある。
源兵衛裏長屋よりも堅牢に作られている厠は共用で、その近くには行水場も作られている。湯殿はない。夏の間は水をかぶって汗を流していたが、寒くなってくると、濡れた手拭いで身体を拭くだけにしておこうと思っていたら、平野晋作に笑われた。
「気合を入れて水をかぶれ。みんなそうしている。気合いだ気合い」
そう言われてしまっては、武術で鍛えてきた者にとっては反論できない。
湯屋は遠い。しかも浪人の時はともかく、武士の身なりで町民の男女に混じって裸になるというのは、武士としての矜持に傷がつくように感じている。
――今日はやめておこう。汗はさほど掻いていないからな。ファア〜アッ、ひとり暮らしは気楽というもんだ。ま、家内は冷え切って、侘びしくもあるがな。
玄関扉を元気よくすべらして開いた。一歩踏み入れた足が、空に浮き後戻りした。
家内に充満している煮物の匂いに、腹の虫がうごめく。暖かい空気が冷えた身体を包みこんできた。
手拭いで頭を覆い、襷がけをした女が振り向いた。
「お疲れ様でございました」
襷をはずしながら頭を下げて迎えた女は、小雪だった。
「おぬし、いかようで」
家内に入って、後ろ手で戸口を閉じた。
「お便りは、一度きりでしたなぁ」
キッ、と睨みつけるような表情をすぐにくずし、笑みを浮かべた。
「でもそれを幾度となく、繰り返し読んでいるうちに、どうしても大坂に参りたいという想いが募って参りました。その様子から察せられたのでしょう。祖母様が、あなたの元に行からっしゃい、と仰せになり、快く送り出していただきました」
どのような内容で書簡を送ったのか――町の様子と、おそらく、長屋の親しかった人々の垣間見た様子を、かいつまんで書いたように思う。
「そうか、飛脚便は高くつく。いつも気にはしておったのだがな。だがぁ、ここに住んでいる者は皆、単身で来ておる。拙者だけ特別という訳には、いかんだろ」
「いけませぬか」
「さぁて、なぁ」
「構わぬではないか。拙者はぁ、良い事だと思うが」
声に振り向くと、戸口に平野晋作が立っていた。その後ろにも、何人かがいるらしい。
「良い匂いに釣られて出てみるとだな、聞き覚えのある女性の声。いや、実は食事に出ようと誘いに来たのだが、その必要はなさそうだな」
「これは、平野様。お世話掛けるばかりで、その節は有難う存じます。あのぅ、よろしければ、皆様もご一緒に、いかがでございましょう。大したおもてなしはできませぬが」
小雪は戸口まで行き、扉を大きく引き開けた。
「いやいや、今宵は遠慮しておこう。なぁ、晋作。そうさな、また日を改めて、持ち寄りで酒盛りしようではないか」
同役が言った。
「そうだな。遠慮いたそう」
「奥方は今日到着されたのであろう。お疲れであろうから、ゆっくりなされぃ」
銘銘が好き勝手を言って、去って行った。
「よかったな、はる」
最後に、晋作はそう言って戸口を閉めた。
「栗尾にはもったいないほどだ」
という声が聞こえた。
「関東煮にしました。味がしみるまで少し置いたほうがよろしいので、その間に、湯屋に行かれてはいかがでしょう。私は、旅の埃を落とすのに、先に行かせていただきました」
「そうだな」
部屋の中には、小雪が使う夜具がすでに置かれていた。
「ふふっ、なじみの古道具屋さんに届けてもらいました。さっ、行ってらっしゃいませ」
差し出された手拭いを、晴之丞は黙って受け取った。