大坂暮らし日月抄
小雪は、松江城下にある晴之丞の屋敷を訪れた時のことを思い出していた。
路銀を得るために、山中に入って小動物を狩ったり山菜を採取したりと、傷が完全に癒えずとも無理をして身体を動かしていたこともあってか、道中時々熱が出た。それでも出雲国に近づくにつれて、ようやく本復したと思ったのだが。
いよいよ屋敷を訪なう時には、少し熱があった。目的地に近づけば近づくほど気が急いてきていたために、微熱を軽く見て、訪ないを入れた。
その時の、祖母様の驚きの表情だけが、脳裏に焼き付いている。
頼りに思ってきた祖母様に会えたことで、張っていた気が緩んでしまったのだろう。
気が付いた時には額に氷嚢が乗せられて、覚えのある部屋に寝かされていた。
頭を少し動かして、開け放たれた庭に目をやった。
木の枝葉は、素人が鋏を入れたような伸び方をしていた。そして、萩が乱れ咲いていた。
寒蝉の声に混じって、遠慮がちに蟋蟀(コオロギ)が鳴いている。
視線を移すと、障子の破れが目に付いた。
床に掛けられていた軸はない。いつも活けられていた花瓶に、花はなかった。
暮らし向きの苦しさが感じられた。
――なんと言って、きりだそうか。
いざとなると、躊躇いが出た。
天井を睨む。
梅が、手桶を持って現れた。目を閉じたままにしていると、解けた氷嚢を取り、代わって手桶に浸していた手拭いを絞って額に当てた。
氷は値が高くて、手に入れにくいはずである。
「梅さん」
目を開いた。
「えしこになっちょうかや。んだぁば、ちょうっと待っとってごしない。奥さま、呼ぶでがや」
「あ、梅さん」
屋敷内の状態を聞いておこうと思ったのだが、梅は氷嚢だけを持って、慌ただしく下がってしまった。
祖母様は、梅に支えられるようにして現れた。
寝具を片付けた小雪は、身なりを整えて端座し、祖母様が現れると深く頭を下げた。
礼を述べようとした小雪を遮って、祖母様はすぐそばに座り小雪の手を取った。
「え、ことか、いけんことか」
「はい、良いことになるかと存じます」
小雪が頬笑みをたたえてゆっくり発すると、祖母様は呼応して、ゆっくりとうなずいた。黒く染めた歯がこぼれんばかりに、笑っている。
梅を遠ざけると、栗尾晴之丞が脱藩した理由、つまり、父である江戸家老朝日重邦から受けた密命を、知っている限り語り、帰藩出来るような方策をふたりで練って、実行したのである。
小雪はそのまま栗尾家に滞在し、祖母様の身の回りの世話を梅に代わってこなした。
時々、食糧を調達するために山に入って、本領を発揮した。それを、梅が腕によりをかけて調理した。
晴之丞が無事に帰藩出来る目処が立つと、祖母様は見違えるほどに若返った。
そんなある日、食事を終え、梅が膳を下げて去ると、祖母様は、小雪をそば近くに呼んで小雪の手を取り、姿勢を正した。
「晴之丞の、嫁御になっちょぅてごしない」
小雪は、言葉が出なかった。
着物の衿をゆるめると諸肌脱いで、黙ったまま向きを変えた。
少しの間があった。
それから祖母様は、ゆっくりと口を開いた。
「忍びのそちは、もうおらんけん。そんだ時ぃ、死んじょった。晴之丞もおんなじじゃ」
「え?」
「一度は藩を捨てちょうたけん。そげん時に、死んどぅるわい。栗尾家当主が、代々受け継いできよったお役目、そげをなげうちよぉぅたけん。だげん、切腹せんならんちゅうとに、逃げよったげになぁ」
溜息をついて、すぐに目を綻ばせて続けた。
「ふっふ、似合いのふたりじゃっちょうてに。小雪殿、晴之丞のことば、こげなばばから、頼み入りますけに」
祖母様は、小雪の手を強く握りしめて、頭を下げた。
「祖母様っ」
握り返した手に力を入れると、ふたりは見つめ合った。
どちらからともなく、緩めた双方の頬を、涙が濡らしていった。