大坂暮らし日月抄
大坂城代土井大炊頭は、直ちに城内に兵を配備し、近隣に出兵を乞い、四千人の兵力でもって翌日より追捕している。
大塩の乱の詮議は、七月十六日から、江戸城辰の口の幕府評定所で行われた。
天保九年八月二十一日、罪科の決定があった。微罪を加えると、七百五十余名が処刑された。
平八郎以下主な門弟二十人が磔刑となり、十一人が獄門、三人が死罪、四人が遠島となった。
平八郎父子のほか、瀬田済之助、渡辺良左衛門、近藤梶五郎、深尾才次郎、宮脇志摩(平八郎の叔父)は、自殺して世になかったが、磔刑の宣告を受け、大坂南郊の飛田刑場において行われた。人相も明らかでない塩漬の死骸を、磔柱に懸けたのである。
重刑者の多くは、獄死していた。
竹上万太郎は、盟約後に逃げていたため、ただひとり生きた者として柱に掛けられた。
幕府権力者は、あまりにも大きな社会的反響を恐れ、厳しい取り調べと厳罰主義でもって、ことごとく極刑に処したが、大塩の乱の後、各地で、大塩の残党と名乗った百姓一揆があいついだのである。