大坂暮らし日月抄
船場は「天下の台所」といわれた大坂の心臓であった。鴻池屋のほかに、加島屋、天王寺屋、近江屋、平野屋、吉野屋、米屋、炭屋、住友、三井などの大店が連なり、暖簾を並べて商いを競っていた。
かれらは「十人両替」となって、京・大坂の金融を支配し、「御用融通方」となって公儀の官金を預かり、「大名貸し」によって諸藩の財務を左右し、各藩「蔵屋敷」の蔵元となって、米をはじめ、各種物産の流通を握っていた。
船場の商人は、天下の商権を握り、公儀の政事に陰然たる影響を及ぼすほどになっていたのである。
今日の飢饉が、数年来の冷害と風水害によることは明らかだが、それに加えて人為的な要因も少なくなく、それが被害を一層深刻にした。
その一つは、産地における米の「囲い持ち」である。そのため予想以上に米の廻米が減少して、米の払底を加速した。
いま一つは、消費地における商人の米の買占めである。これが大坂の米不足に拍車を加え、米価の暴騰を招いた。
東組奉行跡部山城守は、大坂の窮民には眼もくれず、ひたすら江戸の幕閣に対する忠勤に励んだ。新将軍家慶の慶典を口実として、兵庫に腹心の与力を派遣して、密かに米の抜け買いまでして江戸に送っていた。
幕閣では、跡部山城守の実兄にあたる水野越前守が、老中として権勢をふるっている。
跡部山城守が、己の権勢を誇示して、大塩平八郎を嫉視するばかりか彼の救済に関する進言に対し、
「口出し無用。いらぬことをすれば、牢に入れてしまうぞ」
と脅した。
行政的にほとんど無策であることを知るにつれて、大塩平八郎は煩悶した。
奉行所関係の門弟は、新奉行跡部山城守が進めようとしている東西組替えの噂に、強い不安を抱いていた。その上、あいつぐ餓死者や凍死者の死体の処理で、死臭が五体にまつわりつく思いだった。また、盗賊、追剥ぎ、掻っぱらいの跳梁に、身辺に危険を覚える日々が続いていた。
盗賊役の与力が、盗賊の群れによって大小まで巻き上げられるという事件まで起きている。
役人の権威も矜持も、地に堕ちていた。
農村関係の門弟には、庄屋、村役人などの豪農が多く、田畑の荒廃と、商人の欲得による生産秩序の崩壊に頭を痛めていた。飢饉によって、にっちもさっちもいかなくなった小作人の逃散が相次ぎ、残った農民は働く意欲を失って、反抗的な態度を示した。
村役人の手では、それはどうしようもなかった。
そしてここにも物盗り、追剥ぎの類が出没していた。
これにどう対応するかについて、奉行所や代官所はまったく無策だった。ただ、執念のように、年貢米を厳しく取り立てるだけだった。
武装蜂起にあたっては、東組与力と近郊の豪農である門弟二十人ばかりが、誓文署名している。
豪農の門弟は貧しい小作人たちに、金一朱を施行札に添えて、
「天満に火の手が上がれば洗心洞に駆けつけよ」
と囁いて、手渡した。
決行日の朝に、村々に呼び掛けの檄文を配布する予定だったが、裏切りがあったために挙行は早められた。
そして、実際駆けつけたのは、ほとんどが近郊の貧農であった。
天神橋付近で、被差別部落民が誘われて加わり、彼らには用意していた刀、竹槍等を与え、総勢五百人にまで増えたが、城兵が鉄砲を撃ち始めるとほとんどが逃げ去ってしまった。
高麗橋に集結した時に残っていたのは同志と、近郷の村方から駆けつけた貧しい小前百姓たちのみであった。