大坂暮らし日月抄
口入屋があった一帯も、焼けた跡は片付けられて、まだ更地のままだった。だが、口入屋の場所は、すぐに分かった。
職人風情の列が続いており、その先頭まで行くと、幅広の縁台に机を据え、座布団に姿勢を正して座っている、馴染みの顔を見た。
眼鏡を鼻にずらした上目遣いで前に立っている人物を睨めつけると、手元の帳面に何かを記帳して、膝横に置いている紙箱から銭を勘定し、
「ご苦労さん。明日も頼んまっさかいな」
と言いながら、手渡していた。
気配を察して向けられた顔は、信楽焼の狸そのままの、ふくよかで、目尻が下がった、愛嬌たっぷりの表情に変化した。
「こ、これは」
帳面を仕舞おうとしたので、
「そこらをぶらついておるので、並んでおる者の手当てを、先に済ませてくれ」
「ほなら、ここを真直ぐ一町ほど行かれますと、“うまいもん” ちゅう屋台が出とりますんで、そこで、先にやっといてくださいな。ここが終わったら、すぐ参りますよって」
“うまいもん” は、縦に短い藍色の生地を五枚に分け、一枚に白文字が一つずつ染め抜かれている。
屋台は、夫婦で切り盛りしていた。
「この近くで小料理屋、してたんですけどね、風に煽られた火が飛んできて焼け出されたんですわ。その暖簾、夢中で持ち出してね」
包丁を扱っている店主は、顎を振った。
「早よ逃げな、ゆうてんのに、この人、暖簾取りに戻って。根性ですねぇ。火の粉が襲ってきてる、ちゅうのに」
七輪にかけられている鍋の蓋を持ち上げ、お玉で汁をかけ回していた手を止めて、女房が振りかえった。
「こいつは、鍋と釜、両手に提げとるんですわ。重いのに、馬鹿力ってほんまにあるんですなぁ」
屋台の前に据えられている長椅子に腰かけて、晴之丞は、筍と蕗の煮たのを箸でつまんでいた。大坂の味付けは薄味であるが、出汁(だし)が美味いのである。美味い出汁で煮た山菜には、山菜本来の苦みを引き出しながら、程良く昆布と鰹の味が染みており、つい手が伸びてしまう。
夕暮れには、まだ少しある。客は、他にはまだいない。
「ほうでっかぁ、九兵衛はんの、知り合いでっか。ほなら一本、いっときまっか。大根の煮たもん、もうちょっと、待っとっておくんなはれや」
「いや、酒は、口入屋が来るまで待つことにする」