大坂暮らし日月抄
水が、茜を濡らした。茜が倒れていた石畳を、水が浸していた。意識が戻ると、周囲はすでに明るくなっていた。
――とりあえず、水の来ない所。
動こうとすると、強烈な痛みが襲ってきた。振り杖を手に取り、支えとしながら歯を食いしばって、よろけるようにして立ち上がると、杖にすがってゆっくりと歩き、山の斜面に達した。草の根元を束にして握りしめながら、重い身体を引きずるようにして、斜面を上がって行った。
その上には、大きな木の太い根が作り出している、洞穴がある。足を伸ばして座れる広さがあり、そこには、薬を隠していた。新しい晒も置いている。
汚血が全身に回らぬうちに処置すれば、生きられる。
息が弾まないように、ゆっくりと、這った。
洞穴にたどり着くと、根の間に隠していた薬壺を取り出し、毒消し薬を口に入れ、無理にのみ下した。着物は脱ぎ、晒に軟膏をたっぷりと付けると、背中の刀傷に当たるようにして、しっかりと巻き付けた。
そうしてそのまま、眠りに落ちた。
熱にうなされ、目が覚めるたびに毒消し薬を取り出し、のんだ。口の中は乾き切っていたので、のみ込むのに難儀したが、水渇丸と共に、のみ込んだ。
そして、雨水が溜まるように、壺を出しておくことを忘れなかった。
熱が下がって動けるようになると、傷の痛みは残っていたが、元の山娘の身形に着替え、必要と思われる薬と、短刀を身に着けた。
松江へ行くことにしたのだ。
振り杖をつきながら、山を下った。
晴之丞の祖母を頼ろうと、考えたのである。安心して身を寄せられる人は、それ以外の人では、思いつかなかった。
伊賀を避けて奈良へ、大坂を避けて京へ向かい、はるか遠くの、松江を目指した。
旅を続けているうちに、忍びの鍛えられた身体は、回復をみた。それでも、松江を目指した。
晴之丞よりも晴之丞の祖母に、無性に会いたかったのである。
己の想いを聞いてほしい。晴之丞と夫婦になりたい、ということではない。
抜けたといっても今まで、世間では卑しめられている忍び者であり、刀傷のある己には、嫁になれようはずはない、と悟っている。
だが、晴之丞が、無事に帰藩出来る方策があるのだ。
脱藩に至った理由を、藩内に広めればよい。父朝日重邦の「塩見宅共を、密かに殺れ」という、理不尽な命令に従わないためであったことを、明らかにするのだ。
――朝日重邦の名は、藩内の人々には出さないにしても、祖母さまにだけは、明かしておこう。
山の幸と薬を売りながら旅を始めたが、路銀が貯まってくると、忍びの茜は、武家の娘小雪に、戻っていった。