大坂暮らし日月抄
茜にとって、いや小雪にとって、蝮に咬まれて晴之丞に背負われた時のことは、忘れられない。
心あらずの状態で蝮に咬まれたことは、忍びとして恥ずべき事であったが、過去にも同じことがあったと、その記憶が呼び覚まされたのである。長い間、思い出すこともなかった、記憶であった。
5歳の頃に、松江にある父の屋敷に、連れて来られたことがあった。そのあたりの事情は知らないが、屋敷に居づらい時には、ひとりで出歩くことがあった。といっても、いつも、屋敷の周りを歩くだけである。
すると、犬の鳴き声が聞こえてきた。どんな犬なのか興味をそそられて、鳴き声を頼りに、犬を探した。
白色だったか茶色だったか、可愛らしい犬を見つけた。近寄って触ろうとしたところで、跳びかかられ、その拍子に水田に落ちたかして、泥だらけになってしまったのである。
記憶はあいまいだが、少年に背負われた時の情景を思い出した。
少年の首元にあった、変な色になっているところを、
「なんだろう、どうしたのかな」
と不思議に感じて、ずっと見ていたからである。
身体に伝わってくる振動と、少年の体温に、気が安らいだ。その時までに感じたことのない、安堵感であった。
――大きくなったら、この人の、お嫁さんになろう。
そう、決めたのである。
その変な色だったのは、生まれつきある痣、であったことを知った。偶然、背負われることになってしまった晴之丞に、同じものがあったのである。
背負われてすぐに、それは目に付いた。その時には、過去の出来事と結びついていなかったが、身体が揺さぶられている間に既視感に捉われ、その心地良さも手伝って、記憶が呼び戻されたのである。
――もし、この人の命を奪わなければならないとなれば、如何とする。
“栗尾晴之丞” という彼の姓名を確かめると、床に伏せっている間、考え続けた。まだ、人を殺めたことはない。
栗尾晴之丞が、国家老の塩見宅共を、人知れずに斃すという密命を受けていること、それに失敗した時には、あるいは、逃げた時には、栗尾晴之丞を生かしておくな、と命じられていた。
――己の心に従うのだ。
つまり、晴之丞を守ってみせる、ということである。
剣の腕がいかほど立つかは知らぬが、晴之丞には、やむなく人を殺めることなぞできないであろう、とその性格を見極めた。
住み込みの手伝いで、小雪の世話を焼いてくれた梅から聞いたにすぎないが、実直であり、人が良く、温厚すぎるのである。
命令に背くことになる。今までは、自己を消して生きてきた。この時にこそ、自己を、忍び集団の厳しい呪縛から解放したいと、強く思った。
――そのために、己の命を狙われたなら、なんとしても、生き抜いてやる。そしてこの人を、遠くからでもよい、見守っていきたい。
茜は、身を隠した後にも時々、大坂の町に出てきていた。
三味線を手にし、鳥追笠で顔を隠すようにして、晴之丞の後ろを歩いていたこともある。
晴之丞の周辺に不穏な気配がないことを確認すると、山に戻った。