大坂暮らし日月抄
大坂の源兵衛長屋を去り、リュウに闘いを挑まれてから、真っ直ぐにここへ来た。この小屋の存在は、桜婆ぁ以外は知らない。
桜婆ぁが、
「ここは、誰も知ってはおらぬ。ワシと、お主以外は」
と言っていたことを、信じるとすれば、だが。
その婆ぁは、疾うに、この世を去ってしまった。その時に、江戸へ戻った。
「松江へ行き、栗尾晴之丞を、見張れ」
江戸で跳梁していた頭を通して父からの命を受けたのは、その翌年のことであった。その時、父に会いに行き、父から直接、晴之丞の任務と己の仕事について聞かされた。
主の居なくなった小屋は、長年の風雨によって、朽ちていた。蜘蛛の巣が張り巡らされた内部は、狸が巣を作っていた痕跡が残っていた。棚の上にあった道具類は、倒れて埃をかぶっていたが、使用できる物ばかりであった。
茜が、桜婆ぁから教わったのは主に、薬の調合である。必要とする薬草や生き物たちは、十分に存在していた。
歳月を要する調合法もあった。その合間に、武器使用による修業をした。敏捷性、脚力、即座の判断力をつける鍛錬をこなしてきた。
五感を鋭くすべく、不自由な暮らしだからこそ、研鑽できた。
時々、忍び集団の里に出て、実践に近い闘いをした。歳の近いリュウとは、そこで、会うたびに技量を試し合った。すべてが、武器使用による闘いであり、茜が薬を用いた妖かしを使うことは、知らないはずである。忍びたる者はみな、薬の知識には長けているが、桜婆ぁは、独自に工夫を凝らした調合薬を、いくつも作り出していた。
桜婆ぁからは、女と男の交わりなどについても教えられた。
諜報活動には、女の武器がいかに有効であるか、くどいほどに言い含められたのである。
「わしが若い頃にゃぁ、男どもは皆、振り返りよる。微笑んでやると、もうイチコロよ、ケッ、ケッ、ケッ、ケッ。手なずけたらば、なんでも話してくれたもんよ・・・手柄話になるとな、こっちが聞き出さずとも、誰かに話したくて、うずうずしとる。男はのぅ、妖艶な女に、弱イ。ケッケッ」
桜婆ぁは、鼻を広げて、目を皺の中に埋もれさせた。
「わしほどではないにしても、そなたも、そこそこの美貌を、持っておる。諜報には、あつらえ向きよ」
真顔になると、値踏みするように、茜を見つめていたものである。