大坂暮らし日月抄
忍びの闘い
人里遠く離れた山の中。炭焼きの樵でさえ、ここまでは滅多に入って来ない。
初瀬街道の宿場伊勢地へ下って行くのは、月に一回程度である。
宿場の人々が喜ぶ物を提供し、代わりに、必要とする物を買い求めるためである。
山の奥で採取した茸やぜんまい、たけのこ、薬草だけではなく、動物の肉を下げて行くこともある。それらは、まとまった収入をもたらす。
伊勢地に集まる宿屋では、そういった食材、特に、猪と鹿の肉は歓迎された。催促されることもある。
いつしか慣れ親しんだ宿場の人々。ちょっとした無体なことにも、喜んで協力してくれるようになっていた。
宿屋のおかみさん連中は、亭主の茜を見る目が尋常ではないと、茜に、面と向かってこぼすことがある。それほどに、男ばかりでなく、女にも信頼されているという証である。
その日、宿場に預けていた鳩が帰ってきた。足には、文がついていた。
《栗尾晴之丞が貴女を求めて炭焼き小屋から参ります》
――ああ、やはり。あの時、おてるさんに見られたんだ。
自分で調合した薬を腰に下げて、炭焼き小屋へ向かう道を急いだ。
案の定、杣道を上がってくる。誰も入って来られないように木の蔓で塞いだ所を、意にも介さずに、上って来ていた。木に登り、梢の間から、その懐かしい姿を眺めた。だが、峠より先に、進ませてはならぬ。
晴之丞が腰掛けているすぐ後ろの木の影から、沈丁花の花とハシリドコロの根茎を乾燥させて細かくした粉を、燻して、発する煙と匂いを、そっと扇いで送った。
ハシリドコロは、幻覚を見させる毒草である。沈丁花の香りを嗅げば、大きく呼吸するはずだ。
様子を伺いながら、晴之丞の正面に、姿を現した。
「……夫婦になるんだ」という晴之丞の言葉と、愛する人の姿を脳裏に刻みつけると、向きを変えて、走った。
茜は、すぐに草叢に、身を隠した。
晴之丞の目は、小雪のどのような姿を脳裏に映し出しているのかは分からない。おそらく、今のこの姿ではないはずだ。共に暮らしていた頃の姿に、違いない。
木立に跳び着くと、普段から準備しておいた蔓を使って、枝から枝へ移動した。伊勢地宿を見下ろす高台に先に到着すると、そこに置かれている短冊に文字をしたため、山茶花の小枝に結び付けて、晴之丞の手に持たせた。
その時に、幻の世界にいた晴之丞の心は、現身(うつしみ)に戻ったのである。
晴之丞が現れたということは、リュウに、居所を知られてしまったということでもある。
闘いの日は近いと考えて、身の回りを整理しなければならない。
この小屋と周辺は、茜の師である桜婆ぁに連れられ、忍びとしての技をたたき込まれた場所であった。
忍びの女にとっての修行課程には、まさしく、女、にされる、いわゆる “くの一” になるという事象を含んでいる。それは通常、頭が手ほどきする。だが、茜の出自が松江藩江戸家老の血筋であることから、それも含めて、忍び集団の実力者である老婆、桜に委ねられた。
桜婆ぁは、伊賀に関連している人物であり、伊勢地には、気心知った知人を多く有していた。茜は、伊勢地に姿を現すことは許されていなかったため、当時は、そこの人たちとの交わりはなかった。