大坂暮らし日月抄
「この話は、他ではなさらないでください」
上目づかいの視線ではなく、顔を上げ、真正面から晴之丞を捉えて言った。
「洗心洞、のことでございます」
「洗心洞といえば、大塩平八郎殿のことか」
「これを、ご覧ください」
懐から取り出した一枚の札を手渡され、九兵衛が坐している格子の横に座った。
施行札
口上
近年あいつぐ米穀高値につき、困窮の人多くこれあり、
当時御引退の大塩平八郎先生所持の書籍類残らずお売り払いなされ、
その代金をもって、困窮の家一軒前につき金一朱ずつ、
都合一万軒へ御施行これあり候間、
この書付ご持参にて、右記の所へ早々御越し成さるべく候
二月六日
安堂寺町御堂筋南へ入る東側・本会所
書林 河内屋喜兵衛
「わたくし、これを手に入れまして驚きました。すぐに、河内屋さんに走って行ったのでございます、真偽のほどを確かめに。いえね、河内屋さんとは懇意にしておりましてね。真の事で、ございました。荷車八台、およそ六万冊を、六百三十両で買いなすったそうです」
九兵衛は、湯呑の茶を飲み干した。晴之丞も、湯呑を手にした。
「話は、ここからでございます。この札は、村々で広くばらまかれたのでございますが、手渡す時に、申し渡されたことがあるそうです」
晴之丞は湯呑茶碗を置き、真剣な顔つきの九兵衛を、黙って見つめた。
「天満に火の手が上がるのを見れば、必ず洗心洞に駆けつけよ、と」
しばらく沈黙が続いた。晴之丞は腕組みをし、考え込んでいる。
「火の手、というのは物騒だな」
「左様でございます。わたくし、洗心洞、大塩様のお屋敷へ参ったのでございますよ。そしたらあなた、奥方さまを離縁し、女子供たちはみなご実家に帰し・・・いえ、出入りの方に尋ねたのでございますが・・・池は埋め立て、あの立派な鯉は御近所にも配って、お食べになってしまわれた」
それだけ言うと気が済んだのか、今初めて、晴之丞の全身に目を奔らせて、気がついたらしい。
「あれっ、どちらかへ、旅に出られるのでございますか?」
「故郷(くに)に帰ろうと思ってな。九兵衛には、大変世話を掛けた。どんなに感謝しようにも感謝したりんほどだが、礼を言う。お主のことは生涯、忘れぬぞ」
晴之丞は、頭を下げた。
「松江へ帰られる!」
腰を浮かした九兵衛は再び腰を落とすと、
「寂しゅう、なりますなぁ」
と鼻を啜った。
「もうこちらへは、来られないんでしょうなぁ」
「藩で新たな役を得て機会を見つけたら、上役に願い出てみようと思っておる。その時には九兵衛、必ず訪れるぞ」
「栗尾様はやっぱり、脱藩なさってたんでしょ。帰藩かなっても、お咎めは逃れられますまい。くれぐれも、お体大切に」
「九兵衛もな、身体厭えよ」
晴之丞は、立ち上がった。
「先ほどの施行札の実施は、六日から、三日間だそうでございます」
「何が起ころうとも、命第一、だ。必ず、再会するのだぞ」
九兵衛は店先まで出てきて、晴之丞が去って行く後ろ姿を、頭を低くして見送った。