大坂暮らし日月抄
口入屋九兵衛には、伝えておかなければならない。長年にわたって世話になったことへの礼を言わねばならぬ。
暖簾を撥ね上げて踏み入ると、格子内で顔を上げたのは、いつもの信楽焼の狸ではなかった。いや、雰囲気は同じ狸を思わせぬでもないが、薄暗い中でよくよく見つめ直していると、女の声が返ってきた。
「いらっしゃいませ。あいにくと、仕事の方は紹介できませんのですけど・・・雇いたい、ゆうんであればお伺いします」
「九兵衛は、如何いたした」
「あっ、父でございますか。ちょっと伏せっておりますが、呼びだてしましょか」
九兵衛に娘がいたとは思わなかった。そういえば今まで、お内儀にも出会ったことがないことを思い出した。
「起きてきても、大丈夫なのか」
「気鬱の病ですから。もしかして、栗尾様ですよね。お噂はかねがね。呼んできますよって、お待ち下さいな」
ドタドタと、音立てて奥に引っ込んで行った。奥の気配を窺っていると、ドタドタと音立てて、九兵衛がすぐに現れた。
「元気そうではないか」
「栗尾様にお会いできるとなると、私はいつでもすっ飛んでまいります、はい。なんでか、栗尾様とお話していると、気が休まるような気がしまして。なぜなんで、ございましょうねぇ」
「ほぅ〜、喜ばせてくれる言葉だ」
娘が、茶道具をのせた盆を持って現れた。
「ほなら、おとっつぁん、ここに置いときますよって。後はええんですな」
「ああ、すまんな」
九兵衛に似た娘は、下がって行った。
「九兵衛に、娘がおったとはな」
「孫もおります。娘によう似た、そりゃぁ可愛い、女の子」
「で、今日は何か?」という、いつもの問いかけではなく、
「ご存知でしょうか」
と、真剣な表情をして話し始めた。