大坂暮らし日月抄
嫁を娶らば・・・、
旅装束を解かぬままに、通された詰所で対面した勘定方元上役大橋三郎兵衛は、片膝立ちにしゃがんで晴之丞の手を取ると、
「無事でえがったのぅ、えがったえがった」
目を潤ませ、晴之丞の肩を叩いて喜んだ。
廊下を忙しく踏み鳴らして障子を大きく開いたのは、国家老の塩見宅共であった。大橋三郎兵衛の姿を認めると舌打ちをして、下がるように命じたがすぐに言葉を翻し、同席を命じた。
あわてふためいて立ち去ろうとした大橋三郎兵衛は、急いで障子を閉めて部屋の隅に坐すると、塩見宅共は上席に座った。
「ただいま、戻ってござります。断りもなく藩を去りましたこと、お詫び申し上げます。こ度、帰藩致しましたるは、昨今の未曾有の飢饉に際しまして、微力ではございますが、なにか藩のお役に立てればと、思い到った次第にござります。どうか、再度仕官かないますよう御取り計らいいただきたく、お願い申し上げます」
「その方の脱藩の罪、本来なら斬り捨ておくものなれど、諸々の事情を鑑みて十日間の謹慎を申しつける。ただし、庁内において起居いたし、山積みとなって滞こっちょう仕事に従事してもらう。十日間は庁内から出ること、相ならん。面会は認めん。大橋、そげに取り計らえ、すぐに、じゃ」
平伏して聞き入っていた晴之丞、涙が手の甲を濡らした。
松江に入ると、村人の寂れた家々の情景が目に付いた。
一年で最も寒く、屋根を雪が覆い、家の横手には、通りの雪をかき集め山のように積まれている状況にもかかわらず、城下のそこここには、みすぼらしい成りの人々数人ずつがかたまって、何かをするでもなく地に筵を敷いて、体にも筵を巻き付けて座りこんでいた。
そばを通り過ぎる旅姿の晴之丞には、うつろな眼差しが注がれてきた。ある者は両手を差し出し、物を乞う。
襤褸切れで包(くる)んだ赤子を抱いた女は、髪を乱し肋骨(あばら)の浮いた胸をはだけたまま町家の戸を叩いて、重湯を乞うていた。
足先を赤く腫らした裸足の男の子は、濡れた道端に立ったまま指を吸い続けていた。
みな、痩せているがお腹だけが異様に膨らんでいる。
彼らの身体から発する臭いが、通りに充満していた。
胸が疼き、彼らを見ないようにして、うつむいて歩いた。
屋敷には立ち寄らずに、急かされた心持ちで、ただただ城門を目指して来たのである。
「智恵は、言いたいこと、遠慮ものぅ、言わっしゃる」
晴之丞は、国家老の穏やかな顔を見た。智恵、というのは祖母の名である。くだけた言葉が続いた。
「昔から、そげでごじゃぁーたけんのぅ。ま、わいの帰藩を知りゃぁ、上を下への大騒ぎんなろうて。すぐ祝言ちょー、とかゆうての。今んち、ゆっくりしない」
「わたくしの脱藩いたしましたる理由は、」
「そげんこたぁ、もうえが。重邦に真意を質し、叱りおいたけん。そげも、智恵の働きによるけんのぅ。今は助けおうて、藩を支えていきょぉるわい。晴之丞、智恵に孝を尽くすだがん」
廊下にいつの間にか跪いている影が、
「湯のさんだ(用意)整っとります」
と声を掛けてきた。
「とりあえず、埃落としてこぉ。そいからすぐに座敷牢じゃが、そこで務めに取り掛かっちょうてもらうけん。猫の手も、借りてぇところじゃて」